映画のもつ文法
中井正一
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)回《ま》わされている
−−
すべての民族の言語が、文法をそれぞれもっているのをみて、私はいつも考えさせられるのである。誰もこれをつくる約束の会議を開いたのでもないのに、ちょうど水晶が結晶をつくるように、精密な一つの法則をつくっていく。人間社会も、宇宙の大きな旅路の中の、一つの、生成しつつある結晶体のように思えてならない。
かく考えてみれば、歴史も、また大きな詩の流れでもある。私は映画が、この二十世紀の前半に発生し、推移した事実を、静かに顧みてみて、これまでの考えかたでは割りきれようもない、実に多くのもてあます問題にぶつかるのである。しかも、この推移の中に、やはり、そこに新しい結晶の、新しい軸糸をもっているらしいのに驚くのである。
せんだって、『暁の雷撃戦』“The Western Approaches”というイギリス映画が輸入されたけれども、これはイギリスのドキュメンタル・フィルムとしては注目さるべき作品である。まず最初、輸送船団の船長と、それを警護する艦隊の艦長の委員会の情景から、クランクが回《ま》わされている。
この筋には個人としての主役がない。主役はこの船団と、警護の艦隊であり、それらのものが考え込む姿は、委員会であり、話しあう姿は、おのおののラジオの信号、光の点滅のモールスとして交索するのである。
青い青い空、嵐をはらむ雲を背景として幾十の船団が、ドイツ潜航艇の見えざる襲撃に対して、指令と応答、あるいは共に、あるいは孤独に、新しい詩を織りなしていくのである。
しかも、この映画には女士官が電話で指令するただ一カット出るだけで、色恋をすっかり画面からぬぐうかのように消し去っていた。また、難破船に出てくる人々は、ほんとの船員たちであって、俳優は用いなかった。はたして、かかるものが、これまでの美学で芸術といえるだろうか。(興行成績はそれにもかかわらず、日劇のレコードを破っている。)
カントからリップス(一九一四年死)までの美学は、主客合一といったような、個人が物を見、個人が語り、そして個人が思い悩み、苦しむところのものを個人が描くところのものである。
しかるに映画では、うつすものはレンズであり、描くものはフィルムである。物質が見、描くことに人間が手を貸すのであ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング