映画と季感
中井正一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)和《なご》やかさを

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いつわった[#「いつわった」は底本では「いつわつた」]
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 これまで映画は、夏興行のものを、冬撮ることになり、ブルブル慄えながら裸かものを撮り、夏の真中に着物をいっぱい着込んで、塩をいっぱいまいて雪のつもりにしたものであった。
 しかしそれは、いわゆる活動写真時代の名残りであって、いやしくも芸術として映画が独立する段階にいたっては、もはや許されないことなのである。
 よく十六ミリなどで季節の変わったものを継いでみることがあるが、絶対にごまかしのならない季感がフィルムの上にあるものである。例えば、春になると水に光があらわれる。試みに十六ミリで同じ水を一月、二月、三月、四月と撮ってみるがよい。「水光る」季感は、いいようもない正確さでフィルムにあらわれてくるのである。
 おそらく世界でも有数な季感の多い国土として、日本があるであろうが、また人のこころも世界で有数な敏感な民族であるにちがいない。
 しかし私は、今までそのシナリオが、季感そのものを描かんとして書かれたということを聞かない。

 日本の俳句が、伝統的に、「季」がなければ俳句とみなされないということは、何を意味するであろうか。ありきたりの月並連中は、蝶は春、虫は秋ときめてしまっているが、こんなことはもちろんナンセンスな形式主義であり、かかる伝統に対して「季」のない俳句を作るということももちろん当然なことである。
 しかし、深く考えてみるならば、俳句に「季」があるということは、ほかのことをいおうとしてそのことを簡単にいい現わすために「季」が必ずいるということをいっているのではあるまいか。
「ああ自分はまさしく、今天地自然と共に生きてここにいる」という深い存在感がなければ、芸術が生まれないということをいいたかったのではあるまいか。
 自分が、ここに生きていると、えらそうな顔をしているけれども自分の身体の構造すら、はっきりわかっていないのである。宇宙の大きな動きに対しても何もわかってはいないのである。百合一本の花の構造すら、何一つわかっていないのである。このわかっていない多くのものの中に、何かあるらしいことだけが、われわれには感ぜられているのである
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