し私たちが大地に結ばれていることを同時に感じなかったら、その美しさを減ずるであろう。……」(ロマン・ローラン『戦いを超えて』)
 これらの言葉を読む時、彼が生き生きとほんとうに生きていることをわれわれに伝え、われわれの眼が死んだ魚の網膜のようなもので被われて生きていること、自身を見ることをさえぎられていることに気づかしめられるのである。
 常に芸術家は、すべての人々から、魚の網膜を切りとるためにのみあるといえるのである。
 われわれは、芸術を通して奴隷性から封建性等々、歴史の濁った角膜を切りとって、この二十万年の間、人類がみずから築ききたった大いなる宇宙への問い、
「何ものかが、宇宙にある。何ものかが、人生にある。」
 と問い求めるすがすがしいまなざしを、今まさにわれわれの瞳孔にもたなければならないのである。

 映画のレンズが、人間の目に代わって物質の見かたをもって物質のフィルムに刻み込むいろいろの形は、一九五〇年において、新たな人造人間的視覚として、その特異なる角膜をもちはじめつつある。これが悪魔的なものとなるか、または神々的なものになるかは、われわれ人類のこの五十年における決意いかんによって定まるともいえるのである。
 この新たなる瞳孔は一に自分みずから実に敏感にその歴史的段階の標準を記録するのである。一九三〇年のレンズは、一九五〇年のレンズと決して同じでない。うつしたフィルムもその聖なる歴史の一回性をそのまま記録する。またそれを取り扱った民族においてもまぎれることはないのである。ツァイスにはツァイスの見かたがあり、イーストマンにはイーストマンの見かたがある。しかもそのいずれにもせよ、春にうつせば秋にまちがうこともなく、夏にうつせば冬にまちがうことも決してないのである。季節的季感に加うるに歴史的段階をみずからいまだかつていつわった[#「いつわった」は底本では「いつわつた」]ことがないのである。
 それを乱雑につないだのは、監督ならびに編集者の芸術的良心の不足であり、この巨人の見る目を軽侮したのは、シナリオ・ライターのみずからの訓練の未熟さを示すほかの何ものでもなかったといえるであろう。
 集団が自分自身を観るにあたって、カメラもフィルムも、みずからを巨人的に創造しつつある。しかし、彼らは、「縛しめられたるプロメトイス」のようにまだその自由を得ていないというべき
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