ればならない。
 ところが映画では、カットとカットの連続の間には「繋辞」「である」「でない」というものがなしにつながって、大衆の中にそのままでホリ込まれるのである。
 だから、監督がある予想でつないだカットも、現に館で観衆の拍手がきてみなければ安心はならないのである。
 全然反対の結果となることもないとはいえないのである。もし万一、監督が大衆の願いの「志」と「刺」から遊離してきたとなると、その監督のほうが映画界から消えてなくならなくてはならなくなる。……もっともファッショ時代はその反対であろうが。
 ここに映画は、別の文法をもっていることを考えざるをえない。
 トーキーあるいは字幕で通り一遍の「繋辞」「コプラ」をもってはいる。しかし、もう一つの大きなコプラは、大衆が「である」「でない」と胸三寸でつぶやくそのささやきの中にある。
 もし歴史が神の手でつくられるのだったら、神様の独言のようなコプラがひかえている。
 歴史のつぶやきがどのカットの継ぎ目にもさしはさまれ、刺し込まれている。どんなつまらないメロドラマの一カットにも、ガリレオが「でも地球はまわる」とつぶやいたような、この歴史のつぶ
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