の発熱をもたらし、不安と灰の感触の中に涵されたのである。そこに一九二〇年代の青白い憂愁と、高雅なる陰欝がある。
狂えるムンクはその一つの記録である。
それは集団の組織の中にみずからを要素とする道を知らない、偉大なる個人の記録である。破砕せる巨大なる個人の記録である。歴史の深さはそこにある。
一九三〇年にはデュアメルが叫び、一九五〇年にオウエルがゲオルギューが叫んでいるところのものが、またそうである。
インテリ的個人が集団の掌の感触を受け入れるのには一つの回心を要求する。脈々たる「時[#「時」に傍点]」の血汐の感触には、面をそむけるごとき戦慄が待っている。なぐりつけるごとき一抹の時の悪寒の底に、個人をその溶接の一関連体とする巨大なる溶鉱炉が、姿をおこす。
それが資本主義的な外貌をもつとはいえ、時代はすでに集団的性格をその交渉の単位としている。結社、組合、会社、工場、学校、軍隊、新聞、雑誌などのすべてがそれである[#「それである」は底本では「それあでる」]。
いわばそれは新しき未知なる秩序へのあらゆる試射であり、実験である。日々が、歴史それみずからリポートをおのれみずからに報告
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