領域において等値性《イクイヴァレンツ》である。たがいに射影しあうことができる。
 そこで個人が機械に対しては、その一車輪が機械に対する関連の情趣において、個人が社会集団の構成に対する関連の情趣を見いだす。いわば関連の等値性、関連の相似性のすがたにおいてこれを見る。
 ギュヨーが「美の感情はソリダリテの感情とユニテの感情の高い形式にすぎない。それは、われわれ個人の生活の中にある社会の意味である」と言ったのは、この遠い見通しのもとに理解さるべきである。
 そこでわれわれは、感情移入の哲学が個人主義的観念形態に立つかぎり、それを関連の等値性の情趣に換算すべきであろう。そして、そこにひろいひろい展望がわれわれをまっている。
 これをわれわれは仮に関連等値[#「関連等値」に傍点]の情趣[#「情趣」に傍点]と名づくるとすれば、この中に個人はあてもなき感情過剰と憂愁より逃るることのできる新しき契機を見いだすであろう。ダイナモのしみ入るようなふるえが自分たちの生活の中に流れ入るであろう。ふるえる社会の中に快く身をふるわすことができるであろう。かつて、感情移入では移入すべき主体が、一つの仮象の中に閑暇の中に漾游していた。しかし今やそうではない。社会的関連の行為、生産への関連体のまま、その射影体を物理的集団の性格の中に見いだして、その関連《ツーザンメンハング》の情趣を味わうのである。

 4

 かかる関連の情趣を喚起する物理的集団的性格の構成体は、一般的に社会的集団的性格の中より生産される。機械的構造はすなわちそれである。映画の構成がまたそうである。
 その中でもレンズとそれに伴うフィルム、また真空管のもつ性格は、特殊な集団的性格をもっている。それは単なる観照的対象として関連的情趣をもっているのみではない。それは、注意すべきことは、それが感覚それ自身の中に侵入してくることである。いわばそれは社会的集団的性格の神経組織自体であることである。
 眼であり、耳であり、喉であることである。フィルムはその記憶者であり、また再現者でもある。社会的集団的性格は、いわばかかる機能の出現によってその形成をうながされ、固まり、成長してきたと考えられよう。いわば交渉単位としての個人より、集団としての交渉単位にまでの発展には、それの組織をして組織たらしむる機能性を要する。しかもそれが漸次なしとげられつつある
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