リズムの構造
中井正一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)間《ま》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)阿※[#「口+云」、第3水準1−14−87]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔U:berstieg〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 1

『レ・ミゼラブル』の中に次のような一節がある。「もはや希望がなくなったところには、ただ歌だけが残るという。マルタ島の海では、一つの漕刑船が近づく時、櫂の音が聞える前にまず歌の声が聞えていた。シャートレの地牢を通って来た憐れな密猟者スユルヴァンサンは『私を支えてくれたものは韻律である』と告げている。」
 詩が有用か無用か、それは論ずるにまかせて、それがこうした涙の中に事実存在しつづけたことに対して、私たちの深い関心がある。芸術がそれみずから、そしてそれに関する理論が、いかなる過程のもとに、私たちにもたらされているかが、今、問題である。

 2

 一般に自然的現象ならびに肉体的現象における反復現象を、数的構造に射影して解釈することによってリズムを考察するしかたがある。ロッツェ、コーヘンなどの美学者をその中に数えることができるであろう。
 反対にこれらの反復現象を生命的構造に射影して解釈するしかたもまた可能である。ヴォリンガーの Bewegungsausdruck の考えかたはその方向を指し示すであろう。
 さらにまた、その反復現象を、歴史的構造に射影して解釈する立場もある。ギンスブルグ、マーツァの考えかたがその方向を指し示す。
 第一のリズムの解釈のしかたは、数的本質構造に現象の反復性を射影することによって、存在の内面を見透すと考える考えかたである。それは、一言にしていえば、函数的等値的射影をもって、あらゆる領域への関連をはたす数的構造を存在の内面的構造として考える考えかたと歩を同じくしている。ルネッサンス的主知性がそこに長く尾を引いている。デカルト、ライプニッツ、スピノザを貫く数学性よりはじめて、体系論者としてのカント、さらに新カント学派のすべてがその連りの中に数えらるべきである。
 かかる考えかたよりもたらされるものは、ロッツェの時間計量 Zeitmessung としてのリズムの考えかたが代表的である。すなわち、時間の客観的法則性の人間的認識がそこにある。すなわち質的なるものの量化がその根本的考えかたである。
 この考えかたはそれがすでに一つの誤謬であったのにもかかわらず、時代ならびに芸術を支配してしまった。例えば、この考えかたより出発して、音楽そのものさえ数的に一定化するの危険にまでもたらしめた。しかもこのリズム論が今の一般のリズム論ですらあるのである。
 このリズム論のもつ危険性は、相対性理論があらわるるにいたって露わにされたとも考えられよう。すでに時間そのものが、もの[#「もの」に傍点]の動きより生じ、グリニッジ天文台の時計はその一つの便宜的説明にしかすぎなくなった時、リズムの根底をなしている音楽的メトロノームは何を意味することとなるか。時計的俗衆的時間になぜに音楽がその支配権を藉さなければならないか。
 ここにこの考えかたへの難点があると考えられる。待てば千年[#「待てば千年」に傍点]といったような、時間の内面を構成する距離[#「距離」に傍点]の人間学的構造にまず視点が向けらるべきであったのである。かかる数学的リズムの解釈によっては、それは一つの運命的寂寥すらが、リズムの内面に規定されて、数多いリズムそのものの構造の展望にとっては一面的不自由性をすらあたえることとなる。それはいわば単に過去の反復をのみ意味し、機械的であり、蓋然的であるにすぎない。
 外国歌謡を習った子どもに、日本の三味線のリズムを教えることがはなはだしく困難であると一般にいわれている事実は、あるいはここに起因するのではないかと思われる。ルネッサンス的主知主義が人の情趣的領域に数学的解釈を侵入せしめたことのもたらす誤謬が、ひいては音楽そのものの冰れる数学化[#「冰れる数学化」に傍点]をもたらしたといえるであろう。そのことがルネッサンス以前を保持する東洋的なるものと相抵触するとも考えられるであろう。
 しからば東洋的リズムをも解釈の範囲にまで置くことのできる解釈学的立場は、いずれにそのシュテルングを置くべきであろうか。

 3

 ヴォリンガーのいわゆる Bewegungsausdruck すなわち「運動の非物質的表現における物質の克服」の考えかたはリズムの解釈にとっては他の道を指し示すものである。そこではすでに時間の客観的法則化ではなくして、むしろ時間の主観的把握の姿をもってあらわれる。さきに射影[#「射影」に傍点]の概念が意味したものは、これでは邂逅[#「邂逅」に傍点]の思想をもって更えることができるであろう。さきのものが質の量化[#「質の量化」に傍点]の過程をたどっているとすれば、これは量の質化[#「量の質化」に傍点]の方向をたどるともいえよう。すなわちそれはすでに自然数的な加数ではなくして、無理数的な切断の無限[#「切断の無限」に傍点]をも連想せしめる。すなわち、それはロッツェの時間計量 Zeitmessung ではなくして、時間切断 Zeitschnitt とも解釈できるであろう。というのは、リズムに対する東方化を意味する。例えば東洋的思想における、念々[#「念々」に傍点]という言葉において示されるごとき、時の内面的無限において何物かをねらうにあたって、一刻もさきにすることもできず、一刻も遅れることもできないところの、法機の極促を意味する。それがその中にあることで、初めてあることを知ることのできる真の「内」を知るこころ[#「こころ」に傍点]である。存在「内」の意味は、かかる「時の会得」において初めて理解される。日本語において、「間《ま》」の意味するものがかかる構造をもつ。間が合う[#「間が合う」に傍点]、間がはずれる[#「間がはずれる」に傍点]、間が抜ける[#「間が抜ける」に傍点]、間がのびる[#「間がのびる」に傍点]などのものがそれである。それは空間的領域にも融通し、また社会的領域にも例えば仲間[#「間」に傍点]、間[#「間」に傍点]に合うとして用いるごとく相入する底のものである。
 かかる間[#「間」に傍点]の構造は、存在の実存在的理解にあたってその機[#「機」に傍点]にみずから身をひるがえして移入せる場合、その身心の脱落における深い安慰なる緊張、一言にすれば、「内」なる意味の味得である。それは、念々常懺悔ともいうべく、無限の深まりをもって味わわるべきである。一度の許容が、再びの臭味となり、三度の放下となる。かくて憶念の心常にして畢竟の味にまで味到しつくさんとする深い時間の構造でもある。
 それは、音楽のようやく技の熟するにいたって、師の「許し」「伝授」などの形式をもって伝えらる底のものである。数的リズムはここにいたっては、一つの理解の階段にしかすぎない。それをあえて乱すのではない。ただその内面なる無限の距離に面するのである。ここではすでにリズムの原始形態であり、単に時間的に解釈されたる呼吸、歩み、血はすっかり異なった意味を盛ってくる。いわゆるイキが合う[#「イキが合う」に傍点]、あるいは呼吸の会得[#「呼吸の会得」に傍点]の場合、音楽はすでに拍子だけでは解釈がつかなくなってくる。拍子の内奥によき耳[#「よき耳」に傍点]だけが味到せんとする呼吸[#「呼吸」に傍点]が内在する。それは腹八分目に吸いたる息を静かに吐くにあたって、その一瞬の極促において経験する阿※[#「口+云」、第3水準1−14−87]あるいは世阿弥のいわゆる律呂の意識でもあろう。しかし、その意味の根底にはすでに生理的呼吸を遠く超えて、生そのものを通路として、存在の本質にただちに横超する気分[#「気分」に傍点]としての本質理解が内在するといわなければならない。存在の理解の Wie を存在現象の Was の中に自己表現的に邂逅すること、そこに仮象存在 Paraexistenz の深い意味がある。そこでは気分[#「気分」に傍点]は気合[#「気合」に傍点]ともいわるべき構造をすらもつ。そこでは歩み[#「歩み」に傍点]とは実に白露地への躍進と乗り越え 〔U:berstieg〕 を意味する。スポーツの愉悦の大部分はかかる本質現象の技術的領域における邂逅において理解できる。スポーツでストロークと称するものはあきらかにかかるリズムの深い構造に邂逅する。テニスでは一打であり、ボートでは一漕ぎである。しかもそれがすべて一刻一刻の全生命を意味するのである。一つ一つの跳躍を意味する。それは単に拍子をもってしては解きがたきものが内在する。一ストローク一ストロークの内に真に「内」を見いだしうる無限境がある。そこにこそ深いリズムの内的構造があると考えられる。
 かくて、ここではリズムの原始構造である呼吸、歩行、脈搏などのものが単なる拍子としての時計的時間構造をのがれて、むしろ量的なるものの質化への方向をたどって、新しき解釈の領域にその形態をととのえる。和歌、俳句のリズムはかかる意味において捉えらるべきである。そのもつ呼吸はすでに肺を越えている。

 4

 こうした存在論的解釈とさきの数学的解釈の二つのものの根底には、深く考察することによって、ルネッサンスの主知主義と、それに次いであらわれたバロックの主情主義の二つのものの契機をそこに見いださしめるがようである。宗教の暗黒の中より、自我を発見せしめしものは自然であり、科学であった。理性がそれの導火線となった。ブルーノーよりデカルトをさらにカントを見透す線はそれである。
 しかし発見されたものは、自我[#「自我」に傍点]である。新たに発見されたる発見的存在である。明暗を爆烈せしめ、激しきものの根源となり、新しき闇、神秘の基礎となる存在の内面である。ベーメよりフィヒテを貫く線がそれである。
 これらのものは、すでにフランス革命の勃発以前に発生したる契機であると同時に、すでに個人主義文化の二つの大いなる契機でもあった。いわゆるブルジョワジーとは一つのアンチノミーである。具体的歴史的過程において事実存在するがゆえに、そのアンチノミーは弁証法的とよばれもする。ブルジョワジーとは、個人の発見と個人の自己分裂[#「個人の発見と個人の自己分裂」に傍点]の二つのものを意味する。
 個人の発見[#「個人の発見」に傍点]は科学[#「科学」に傍点]が導きだしたものであり、カントがその成立を立証せんとしたものである。
 個人の自己分裂[#「個人の自己分裂」に傍点]は、すでに自我の概念の成立[#「成立」に傍点]とともに始まっている。フィヒテがその槓杆となったところのものである。個人の成立はその誕生の日にすでに否定の槌の下においてなされている。それはイロニーであり、それは動座標的な一つの動きのほかの何ものでもない。
 かかる滑べれる地盤の上に成立する思想的建築物は、一歩その目標をあやまれば裂傷を受ける。今のいずれの思想がその傷めるものを嗣がないといえよう。
 存在論的考察の内面には、その鋭き視点の貫きにもかかわらず、いいしれぬ戦後的思想がその背後を覆うている。塹壕の臭いがする。
 瞬間への信仰的な愛着。執拗な個人性への付着。はかない偶然性への戯れの驚き。かかるものがすることのなくなった個人主義文化の美しい幻である。
 かかる瞬間性[#「瞬間性」に傍点]と個人性[#「個人性」に傍点]と偶然性[#「偶然性」に傍点]は、その最もよき組みあわせを恋愛の姿においてもっている。愛のたわむれ、心中のもつ気紛れ、そこにブルジョワジーの美しい夢と華がある。リズムもそのコンビネー
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