かたはリズムの解釈にとっては他の道を指し示すものである。そこではすでに時間の客観的法則化ではなくして、むしろ時間の主観的把握の姿をもってあらわれる。さきに射影[#「射影」に傍点]の概念が意味したものは、これでは邂逅[#「邂逅」に傍点]の思想をもって更えることができるであろう。さきのものが質の量化[#「質の量化」に傍点]の過程をたどっているとすれば、これは量の質化[#「量の質化」に傍点]の方向をたどるともいえよう。すなわちそれはすでに自然数的な加数ではなくして、無理数的な切断の無限[#「切断の無限」に傍点]をも連想せしめる。すなわち、それはロッツェの時間計量 Zeitmessung ではなくして、時間切断 Zeitschnitt とも解釈できるであろう。というのは、リズムに対する東方化を意味する。例えば東洋的思想における、念々[#「念々」に傍点]という言葉において示されるごとき、時の内面的無限において何物かをねらうにあたって、一刻もさきにすることもできず、一刻も遅れることもできないところの、法機の極促を意味する。それがその中にあることで、初めてあることを知ることのできる真の「内」を知るこころ[#「こころ」に傍点]である。存在「内」の意味は、かかる「時の会得」において初めて理解される。日本語において、「間《ま》」の意味するものがかかる構造をもつ。間が合う[#「間が合う」に傍点]、間がはずれる[#「間がはずれる」に傍点]、間が抜ける[#「間が抜ける」に傍点]、間がのびる[#「間がのびる」に傍点]などのものがそれである。それは空間的領域にも融通し、また社会的領域にも例えば仲間[#「間」に傍点]、間[#「間」に傍点]に合うとして用いるごとく相入する底のものである。
かかる間[#「間」に傍点]の構造は、存在の実存在的理解にあたってその機[#「機」に傍点]にみずから身をひるがえして移入せる場合、その身心の脱落における深い安慰なる緊張、一言にすれば、「内」なる意味の味得である。それは、念々常懺悔ともいうべく、無限の深まりをもって味わわるべきである。一度の許容が、再びの臭味となり、三度の放下となる。かくて憶念の心常にして畢竟の味にまで味到しつくさんとする深い時間の構造でもある。
それは、音楽のようやく技の熟するにいたって、師の「許し」「伝授」などの形式をもって伝えらる底のものであ
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