の中に数えらるべきである。
かかる考えかたよりもたらされるものは、ロッツェの時間計量 Zeitmessung としてのリズムの考えかたが代表的である。すなわち、時間の客観的法則性の人間的認識がそこにある。すなわち質的なるものの量化がその根本的考えかたである。
この考えかたはそれがすでに一つの誤謬であったのにもかかわらず、時代ならびに芸術を支配してしまった。例えば、この考えかたより出発して、音楽そのものさえ数的に一定化するの危険にまでもたらしめた。しかもこのリズム論が今の一般のリズム論ですらあるのである。
このリズム論のもつ危険性は、相対性理論があらわるるにいたって露わにされたとも考えられよう。すでに時間そのものが、もの[#「もの」に傍点]の動きより生じ、グリニッジ天文台の時計はその一つの便宜的説明にしかすぎなくなった時、リズムの根底をなしている音楽的メトロノームは何を意味することとなるか。時計的俗衆的時間になぜに音楽がその支配権を藉さなければならないか。
ここにこの考えかたへの難点があると考えられる。待てば千年[#「待てば千年」に傍点]といったような、時間の内面を構成する距離[#「距離」に傍点]の人間学的構造にまず視点が向けらるべきであったのである。かかる数学的リズムの解釈によっては、それは一つの運命的寂寥すらが、リズムの内面に規定されて、数多いリズムそのものの構造の展望にとっては一面的不自由性をすらあたえることとなる。それはいわば単に過去の反復をのみ意味し、機械的であり、蓋然的であるにすぎない。
外国歌謡を習った子どもに、日本の三味線のリズムを教えることがはなはだしく困難であると一般にいわれている事実は、あるいはここに起因するのではないかと思われる。ルネッサンス的主知主義が人の情趣的領域に数学的解釈を侵入せしめたことのもたらす誤謬が、ひいては音楽そのものの冰れる数学化[#「冰れる数学化」に傍点]をもたらしたといえるであろう。そのことがルネッサンス以前を保持する東洋的なるものと相抵触するとも考えられるであろう。
しからば東洋的リズムをも解釈の範囲にまで置くことのできる解釈学的立場は、いずれにそのシュテルングを置くべきであろうか。
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ヴォリンガーのいわゆる Bewegungsausdruck すなわち「運動の非物質的表現における物質の克服」の考え
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