る。数的リズムはここにいたっては、一つの理解の階段にしかすぎない。それをあえて乱すのではない。ただその内面なる無限の距離に面するのである。ここではすでにリズムの原始形態であり、単に時間的に解釈されたる呼吸、歩み、血はすっかり異なった意味を盛ってくる。いわゆるイキが合う[#「イキが合う」に傍点]、あるいは呼吸の会得[#「呼吸の会得」に傍点]の場合、音楽はすでに拍子だけでは解釈がつかなくなってくる。拍子の内奥によき耳[#「よき耳」に傍点]だけが味到せんとする呼吸[#「呼吸」に傍点]が内在する。それは腹八分目に吸いたる息を静かに吐くにあたって、その一瞬の極促において経験する阿※[#「口+云」、第3水準1−14−87]あるいは世阿弥のいわゆる律呂の意識でもあろう。しかし、その意味の根底にはすでに生理的呼吸を遠く超えて、生そのものを通路として、存在の本質にただちに横超する気分[#「気分」に傍点]としての本質理解が内在するといわなければならない。存在の理解の Wie を存在現象の Was の中に自己表現的に邂逅すること、そこに仮象存在 Paraexistenz の深い意味がある。そこでは気分[#「気分」に傍点]は気合[#「気合」に傍点]ともいわるべき構造をすらもつ。そこでは歩み[#「歩み」に傍点]とは実に白露地への躍進と乗り越え 〔U:berstieg〕 を意味する。スポーツの愉悦の大部分はかかる本質現象の技術的領域における邂逅において理解できる。スポーツでストロークと称するものはあきらかにかかるリズムの深い構造に邂逅する。テニスでは一打であり、ボートでは一漕ぎである。しかもそれがすべて一刻一刻の全生命を意味するのである。一つ一つの跳躍を意味する。それは単に拍子をもってしては解きがたきものが内在する。一ストローク一ストロークの内に真に「内」を見いだしうる無限境がある。そこにこそ深いリズムの内的構造があると考えられる。
 かくて、ここではリズムの原始構造である呼吸、歩行、脈搏などのものが単なる拍子としての時計的時間構造をのがれて、むしろ量的なるものの質化への方向をたどって、新しき解釈の領域にその形態をととのえる。和歌、俳句のリズムはかかる意味において捉えらるべきである。そのもつ呼吸はすでに肺を越えている。

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 こうした存在論的解釈とさきの数学的解釈の二つのものの根底には、
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