も与えまいとしての関心と焦慮、それは確かに一つの不安ではある。
しかし、彼等の不安の一番深い根を探る時、彼等をして闇々の中に悚然《しょうぜん》として脅かしているものは、寧ろモウ一つの不安、即ちそれらの失敗がもたらすところの経済的不安である。芸術的不安という寧ろ第二次的不安より、漸くこの彼等の真の一次的不安に向って関心は凝集されはじめる。画壇にもせよ、楽壇にもせよ、その傾向はみな同じである。
この芸術の経済性の第一階程は、先ず弟子とパトロンの捜索よりはじまる。稍々愚鈍なる浪費者を身辺に求めることは或時代に於ては可能であった。しかし、今に於ては漸く殆ど稀である。従って今や他の組織を必要とするに至った。この第二の階程は芸術的ブローカーとしてのマネジャーを把握することである。楽壇にマネジャーがあるように、画壇にも画商ブローカーがある。文壇に於ては雑誌及び出版書店がその役割を演ずる。いわゆる文壇、楽壇、画壇なるものの最近の第一次的な機能は寧ろこの階程に於ける経済的機構にあるが様である。云わばこれらブローカーへの未組織的集団的圧迫が付託されている。
かかる経済的機構が評価並に学壇にも支配しているが故に、問題は歪んで来る。
芸術家も批評家も一様にこの黒いマスクをかけて躍っているのである。もし何人かこのマスクを取落すものありとせば、彼は黒い布の下から射すくめらるる無限の視線に顔を赤めて身を翻さなければならないであろう。
しかし、今やこうした組織すらもが――困ったことには――その経済的機構を付託され得なくなって来た様である。
ここにいわゆる「壇」の崩壊が萠しはじめて来たのである。全くとんだ壇の浦である。
「壇」の構造が、かくして芸術的ブローカーを中心とする未組織的集合であるとするならば、それは恰も、手工業者が、販売的ブローカーに対する如き関係を構成するに至る。この関係はやがて経済的生活の圧迫の深刻となるにつれて、一種の崩壊と解体、並に新しき組織へと方向を転ずるに至る。
手工業が漸く自己企業的組織に転換する如く、芸術的自己企業化が生れはじめる。云わばブローカーとブローカーの間にもまれるよりは、芸術家が各々一定の組織をもって、企業的自己意識をもとうと考えはじめる。例えば文芸春秋が芸術的一団体を構成して、自ら一購読雑誌として企業的組織をもとうとしている如きがそれである。文戦或
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