に労働階級の境遇もまた著しく改善されるであろう、第一に、僕婢に対する需要の増加によって、第二に、かくも豊富な純生産物が与える所の、収入からの貯蓄に対する刺戟によって、そして第三には、彼らの労賃がそれに支出されるすべての消費物の価格の下落によって。
(一四二)吾々の注意が今向けられて来た所の機械の発明と使用に関する考察とは別に、労働階級は、国の純所得が費される仕方について、たとえすべての場合においてそれは正当にそれを得る権利を有つ者の満足と享楽のために費されるとはいえ、少なからざる利害関係を有っている。
 もし地主または資本家が、その収入を、昔の貴族と同様に、多勢の家来または僕婢の支持に費すならば、彼は、それは美しい衣服や高価な什具、馬に、または何らかの他の奢侈品の購買に、費す場合よりも遥かにより[#「より」に傍点]多くの労働に職業を与えるであろう。
 双方の場合において、純収入は同一であり、総収入もまたそうであろうが、しかし前者は異る貨物に実現されるであろう。もし私の収入が一〇、〇〇〇|磅《ポンド》であるならば、私がそれを美しい衣服や高価な什器に実現しようと、または同一の価値を有つ食物や衣服のある分量に実現しようとを問わず、ほとんど同一量の労働が雇傭されるであろう。しかしながら、もし私がその収入を第一群の貨物に実現するならば、その結果として[#「その結果として」に傍点]、より[#「より」に傍点]以上の労働が雇傭されることはないであろう。――私は、私の什器や私の衣服を享楽し、そしてそれは終りを告げるであろう。しかし、もし私が、その収入を食物や衣服に実現し、そして私の願望が僕婢を雇傭するにあるならば、私が一〇、〇〇〇|磅《ポンド》の私の収入をもって、あるいはそれが購買すべき食物や衣服をもって、僕婢として雇傭し得るすべての者が、労働者に対する以前の需要に附加されるはずであり、そしてこの附加は、ただ私がその収入をかくの如く費す方を選んだが故にのみ起るであろう。かくて労働者は労働に対する需要に利害関係を有っているから、彼らは当然、出来るだけ多くの収入が、奢侈品への支出から転向せしめられて僕婢の支持に費されることを望まなければならぬのである。
 同様にして、戦争をしておりかつ大陸海軍を維持しなければならぬ国は、戦争が終りを告げかつ戦争の齎す所の年々の支出が止んだ時に、用いられるよりも、極めてより[#「より」に傍点]多くの人間を、用いるであろう。
 もし私が、戦争の間に、五〇〇|磅《ポンド》の租税――そしてそれは陸海軍人たる人々に支出されるものであるが――を求められないならば、私はおそらくその所得部分を、家具、衣服、書類等々に支出し、そしてそれがこれらのいずれの仕方で支出されようと、同一量の労働が生産に雇傭されるであろう。けだし陸海軍人の食物及び衣服は、それを生産するに、より[#「より」に傍点]奢侈的な貨物と同額の勤労を必要とするからである。しかし戦争の場合には陸海軍人たる人々に対する需要の増加があり、従って一国の収入よりして支持されその資本によっては支持されない戦争は、人口の増加に対して好都合なものである。
 戦争の終結に当り、私の収入の一部分が私の所に戻って来、以前と同様に葡萄酒や什器やその他の奢侈品の購買に用いられるならば、それが以前に支持しかつ戦争が齎した所の人口は過剰となり、そしてそれが爾余《じよ》の人口に及ぼす影響と両者の間の就職競争とによって、労賃の価値は下落せしめられ、労働階級の境遇は著しく悪化されるであろう。
 一国の純収入の額の増加、またむしろその総収入の増加が、労働に対する需要の減少に伴う可能性について、注目すべきもう一つの場合がある、それは、馬の労働が人間のそれに代位せしめられる場合である。もしも私が私の農場に百名を用い、そして私が、これらの人々の中の五十名に与えられる食物が馬の支持に転向され得、しかも私に、馬の買入に要する資本の利子を控除した後に、より[#「より」に傍点]多量の粗生生産物の収穫を与えることを見出すならば、私にとっては、人間に代えるに馬をもってするのが有利であり、従って私はそうするであろう。しかしこのことは人々の利益とはならず、そして私の得る所得が私をして馬と人間との双方を用い得せしめるほどに増加されない限り、人口は過剰となり労働者の境遇は一般的に下落すべきことは明かである。彼がいかなる事情の下においても農業に雇傭され得ないことは明かである。しかしもし土地の生産物が、馬に代えるに人間をもってすることによって、増加されるならば、彼は、製造業に、または僕婢として、雇傭されるであろう。
(一四三)私のなした叙述が、望むらくは、機械は奨励されてはならないという推論に導かざらんことを。原理を明かにせんがために、私は、改良された機械が突然[#「突然」に傍点]に発明され、そして広汎に使用される、と仮定して来た。しかし事実は、これらの発明は徐々たるものであり、そして資本をその現実の用途から他へ転向せしめるよりはむしろ、節約されかつ蓄積された資本の用途を決定するに作用するのである。
 資本と人口との増加ごとに、食物は、その生産の困難の増大によって、一般的に騰貴するであろう。食物の騰貴の結果は労賃の騰貴であり、そして労賃の騰貴ごとに、蓄積された資本が以前以上の比例において機械の使用に向うという傾向が起るであろう。機械と労働とは断《た》えず競争しており、そして前者はしばしば、労働が騰貴するまでは使用され得ないのである。
 人間の食物の調達が容易なアメリカその他の多くの国においては、食物が高くその生産に多くの労働が費される英国における如くに、機械を用いんとする大なる誘引はほとんどない。労働を騰貴せしめると同一の原因は機械の価値を騰貴せしめず、従って資本の増加ごとにそのより[#「より」に傍点]大なる部分が機械に用いられる。労働に対する需要は資本の増加と共に引続き増加するであろうが、しかしその増加に比例しては増加しない。その比率は必然的に逓減的比率であろう(註)。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
(註)『労働に対する需要は流動資本の増加に依存し、固定資本の増加には依存しない。これら二種類の資本の間の比例はすべての時、すべての国において同一であるということが真実であるならば、もちろん、雇傭労働者は国家の富に比例するということになる。しかしかかる状態は起りそうもない。技術が進歩し文明が拡大するにつれて、固定資本は流動資本に対しますますより[#「より」に傍点]大なる比例を有つに至る。英国モスリン一反の生産に用いられる固定資本額は、印度《インド》モスリンの同じ一反の生産に用いられるそれよりも少くとも百倍、おそらく千倍もより[#「より」に傍点]多いであろう。そして用いられる流動資本の比例は百倍または千倍より[#「より」に傍点]少いであろう。一定の事情の下においては、勤勉な人民の年々の貯蓄の全部が固定資本に附加され、その場合にそれは労働に対する需要を増加するという影響を少しも有たないであろう、と考えることは容易である。』
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
 バアトン、『社会の労働階級の状態について』、[#「』、」は底本では「、』」]一六頁
 思うに、いかなる諸事情の下においても、資本の増加は労働に対する需要の増加を伴わないであろう、と考えることは容易でない。せいぜい言い得ることは、需要は逓減的比率にある、ということである。バアトン氏は上記の著書において、思うに、固定資本の分量の増加が労働階級の境遇に及ぼす影響のあるものについて、正しい見解をとっている。彼れの論文は多くの価値多い記述を有っている。
[#ここで字下げ終わり]
 私は前に、貨物で測定された純所得の増加――それは常に機械の改良の結果であるが、――が新しい貯蓄と蓄積とに導くであろうということもまた述べた。かかる貯蓄は、記憶すべきことであるが、毎年のことであり、そしてまもなく、初めに機械の発明によって失われた総収入よりも遥かにより[#「より」に傍点]大なる基金を造り出すはずであるが、その時には、労働に対する需要の大きさは以前と同一になり、そして人民の境遇は、増加せる純収入がなお彼らをしてなすを得せしめる貯蓄の増加によって、更により[#「より」に傍点]以上改善されるであろう。
 機械の使用は、一国家において、決して安全に阻まれ得ない、けだしもし我国において機械の使用が支えるべき最大の純収入を得ることが許されないならば、資本は海外に運ばれるからであり、そしてこのことは、機械の最も広汎な使用以上に重大な労働の需要に対する阻害であるに相違ない。何となれば、資本が我国において使用されている間は、それは労働に対する需要を創造するに相違ないからである。機械は人間の助力なくしては運転され得ず、それは彼らの労働の貢献なくしては製造され得ない。資本の一部分を改良された機械に投ずれば、労働に対する逓増的需要には減少が起るであろうが、それを他国に輸出すれば、需要は皆無に帰するであろう。
 貨物の価格もまたその生産費によって左右される。改良された機械の使用によって貨物の生産費は減少され、従ってそれは外国市場においてより[#「より」に傍点]低廉な価格で売られ得る。しかしながらすべての他国が機械の使用を奨励しているのにこれを拒否するならば、自国の財貨の自然価格が他国の価値にまで下落するまで、外国の財貨と引換に貨幣を輸出せざるを得ないこととなる。かかる国々と交換をなすに当って、我国において二日の労働を費した貨物を、外国において一日の労働を費した貨物に対して与えることとなり、そしてこの不利益な交換は自己自身の行為の結果たるものである。けだし輸出されかつ二日の労働を費されている貨物は、隣国人がより[#「より」に傍点]賢明にその作用を専用した所の機械の使用を拒否しなかった場合には、単に一日の労働が費されたに過ぎなかったものであるからである。
[#改ページ]

    第三十二章 地代についてのマルサス氏の意見

(一四四)地代の性質については本書の前の場所でかなり長く取扱ったけれども、しかも私は、私には誤っているように思われ、かつそれが今日のすべての人の中で、経済学のある部門が負うこと最も多き人の著作において見出されるためにより[#「より」に傍点]重要である所の、この問題に関するある意見に、触れるべきであると考える。マルサス氏の人口に関する試論について、私は賞讃の意を表現すべき機会がここに与えられたことを、幸福とする。この大著作に対する反対論者の攻撃は、単に彼れの強みを説明したに過ぎなかった。そして私は、その正当な名声は、この書がもって飾る所の経済学の進歩と共に拡がり行くことを確信するのである。マルサス氏はまた、地代に関する諸原理を十分に説明し、そしてそれは耕作されている種々なる土地の肥沃度または位置についての相対的便益に比例して騰落することを説明し、ひいては以前には全く知られていなかったかまたは極めて不完全にしか理解されていなかった地代の問題に関聯する多くの難点に、多くの光明を投じたのである。しかし彼は二三の誤謬に陥っているように思われるが、これを指摘することは彼が権威ある学者であるためにより[#「より」に傍点]必要であり、他方彼の性来の淡白のためにこのことはさほど不快ではなくなる。これらの誤謬の一つは、地代をもって、明かな利益でありかつ富の新創造である、と想像することにある。
 私は地代に関するビウキャナン氏のすべての意見には同意しないが、しかし、マルサス氏によって彼れの著書から引用された章句中に現れているものには、全く同意する。従って私は、それに対するマルサス氏の評論には反対しなければならない。
『かく観ずれば、それ(地代)は、社会の資本に対する一般的附加をなすことは出来ない、けだし、問題の純剰余は一つの階級から他の階級に移転された収入に他ならないからであり、またそれがか
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