私がはじめて経済学の諸問題に注意を向けてより以来、私の意見は、労働を節約するという結果を有つ如き、生産部門への機械の採用は、一般的福祉であり、単に多くの場合に資本及び労働を一職業から他の職業に移動することに伴う不都合を随伴するに過ぎない、というにあった。地主が同一の貨幣地代を得る限り、彼らは、かかる地代を費して得る貨物のあるものの価格の下落によって利得し、そしてこの価格の下落は、必ずや機械の使用の結果でなければならないように、私には思われた。資本家もまた思うに、結局正確に同様にして利得するものであった。もちろん機械の発明をなし、また最初にそれを有用に用いた人は、一時多額の利潤を得ることによって、その上に利益を享受するであろう。しかし、機械が一般に使用されるようになるにつれて、生産された貨物の価格は、競争の影響により、その生産費にまで下落し、その時には資本家は以前と同一の貨幣利潤を得、そして、彼は、同一の貨幣収入をもってより[#「より」に傍点]多量の愉楽品及び享楽品を支配し得せしめられるために、一消費者として、単に一般的便益に参加するに過ぎないであろう。労働者階級もまた、機械の使用によって等しく利得するが、けだし彼らは同一の貨幣労賃をもってより[#「より」に傍点]多くの貨物を購買するの手段を有つからである、と私は考え、また私は、労賃の低落は全く起らないであろうが、けだし、資本家は、彼は新しいまたはとにかく異る貨物の生産に労働を雇傭せざるを得ないとはいえ、以前と同一分量の労働を需要しかつ雇傭する力を有つからである、と考えた。もし、機械の改良によって、同一分量の労働の使用をもって、靴下の分量が四倍とされ得、そして靴下に対する需要は単に二倍とされるに過ぎないならば、若干の労働者は必然的に靴下製造業から解雇されるであろう。しかし、彼らを雇傭していた資本は依然存在し、そしてそれを生産的に使用するのがその所有者の利益であるから、それは、社会にとり有用でありかつそれに対しては必ず需要がある所のある他の貨物の生産に雇傭されるであろう、と私には思われた、けだし私は、アダム・スミスの次の考察が真実であることを深く印象されていたしまた印象されているからである。すなわち、『食物に対する欲望は、人間の胃の狭小な受容力によって、あらゆる人において限定されているが、しかし建物や衣服や馬車や家具の如き便宜品及び及び装飾品に対する欲望には、何らの限界もなく一定の境界もないように思われる。』かくて以前と同一の労働に対する需要があり、そして労賃は少しも下落しないように、私には思われたから、私は、労働階級は他の諸階級と等しく、機械の使用より起る貨物の価格の一般的下落による便益に、参加するものと考えたのである。
(一四〇)かかるものが私の意見であった。そしてそれは引続き、地主と資本家とに関する限りにおいては、変っていない。しかし私は今は、人間労働に対し機械を代えるのは、しばしば、労働者階級の利益に対し極めて有害であると確信している。
 私の誤りは、社会の純所得が増加する時には常にその総所得もまた増加するという仮定に発したものであった。しかしながら、私は今は、地主と資本家とがその収入を得る一つの資金は増加するであろうが、しかるに労働階級が主として依存する他の資金は減少するであろう、と信ずべき理由を知る。従って、もし私が正しいならば、国の純収入を増加すると同一の原因が、同時に人口をして過剰ならしめ、そして労働者の境遇を悪化せしめるであろう、ということになるのである。
 一資本家が二〇、〇〇〇|磅《ポンド》の価値の資本を用い、そして彼は農業者と必需品の製造業者との事業を共に営むものと、吾々は仮定しよう。吾々は更に、この資本の中《うち》七、〇〇〇|磅《ポンド》は、固定資本、すなわち建物、器具等に投ぜられ、そして残りの一三、〇〇〇|磅《ポンド》は流動資本として労働の支持に用いられるものと仮定しよう。また利潤は一〇%であり、従ってその資本家の資本は毎年その本来の能率状態に置かれて二、〇〇〇|磅《ポンド》の利潤を生むものと仮定しよう。
 毎年この資本家は、一三、〇〇〇|磅《ポンド》の価値を有つ食物及び必要品を所有して操作を開始し、そのすべてを一年間に自分自身の労働者に同じ金額の貨幣に対して売り、そして同一期間内に、彼は労働者に同額の貨幣を労賃として支払う。かくてその年の終りには、彼らは一五、〇〇〇|磅《ポンド》の価値を有つ食物及び必要品を自己の所有に囘収し、その中《うち》二、〇〇〇|磅《ポンド》は自分で消費し、または彼れの快楽及び満足に最も合致するように処分する。これらの生産物が関する限りにおいて、その年の総生産物は一五、〇〇〇|磅《ポンド》であり、純生産物は二、〇〇〇|磅《ポンド》である。今、次の年に資本家がその労働者の半分を機械の建造に用い、また他の半分を常の如くに食物及び必要品の生産に用いると仮定しよう。その年には彼は常の如くに労賃として一三、〇〇〇|磅《ポンド》の額を支払い、またその労働者に食物及び必要品を同じ額だけ売るであろう。しかしその次の年にはどうなるであろうか?
 機械が造られている間は、通常量の半分の食物及び必要品が取得されるに過ぎず、そしてそれは以前に生産された分量の半分の価値を有つに過ぎないであろう。機械は七、五〇〇|磅《ポンド》の価値を有ち、食物及び必要品は七、五〇〇|磅《ポンド》の価値を有ち、従って資本家の資本の大いさは以前と同一であろう。けだし彼はこれらの二つの価値の他に、七、〇〇〇|磅《ポンド》に値する固定資本を有っており、全体として二〇、〇〇〇|磅《ポンド》の資本と、二、〇〇〇|磅《ポンド》の利潤となるからである。この後者の額を彼自身の出費として控除した後に、彼は爾後《じご》の操作を行うべき流動資本としては五、五〇〇|磅《ポンド》を有するに過ぎないであろう。従って彼れの労働を雇傭する手段は、一三、〇〇〇|磅《ポンド》対五、五〇〇|磅《ポンド》の比例で減少し、その結果として、七、五〇〇|磅《ポンド》によって以前に雇傭されていたすべての労働は過剰となるであろう。
 この資本家が用い得る所の労働量の減少は、もちろん、機械の援助により、そしてその修繕のための控除をなした後、七、五〇〇|磅《ポンド》に等しい価値を生み出さなければならない、それは流動資本を囘収し全資本に対し二、〇〇〇|磅《ポンド》の利潤を得なければならない。しかしもしこのことがなされるならば、もし純所得が減少しないならば、総所得が三、〇〇〇|磅《ポンド》の価値を有とうと、一〇、〇〇〇|磅《ポンド》の価値を有とうと、または一五、〇〇〇|磅《ポンド》の価値を有とうと、それはこの資本家にとっては何の関する所であろうか?
 しからばこの場合には、純所得の価値は減少せず、その貨物購買力は大いに増加するであろうけれども、総生産物は、一五、〇〇〇|磅《ポンド》の価値から、七、五〇〇|磅《ポンド》の価値に下落しているであろう、そして人口を支持し労働を使用する力は、常に国民の総生産物に依存し、その純生産物には依存しないから、必然的に労働に対する需要は減少し、人口は過剰となり、そして労働階級の境遇は窮乏と貧困とのそれになるであろう。
(一四一)しかしながら、資本を増加するために収入から貯蓄するの力は、純収入が資本家の欲求する所を充足する力に依存しなければならないから、必ずや、機械採用の結果たる貨物の価格の下落から、同一の欲求品を手に入れながら彼れの貯蓄力は増加する――収入を資本に転ずる便宜は増加する――という結果が起って来るであろう。しかし資本が増加するごとに彼はより[#「より」に傍点]多くの労働者を雇傭するであろう。従って最初に失業した者の一部分は後に雇傭されるであろう。そしてもし機械の使用の結果たる生産の増加が極めて大であるために、以前に総生産物の形で存在していたと同一量の食物及び必要品を純生産物の形で与えるならば、全人口を雇傭する能力は同一であり、従って何らの人口過剰も必然的に起るわけではないであろう。
 私の証明せんと欲するすべては、機械の発明と使用とは総生産物の減少を伴うかもしれず、そしてそれが事実である時には常に、それは労働階級にとって有害であり、その理由は、彼らのある者は解雇され、そして人口はそれを雇傭すべき基金に比して過剰となるであろうから、ということである。
 私が仮定して来た場合は私が選び得る最も簡単なものである。しかしもし吾々が、機械がある製造業――例えば毛織物業または木綿織物業――に用いられたとしても、それは結果において何らの相違も起さないであろう。もしそれが毛織物業であるならば、機械の採用後はより[#「より」に傍点]少なる毛織布が生産されるであろう。けだし多数の労働者に支払う目的で処分される分量の一部分は、彼らの雇傭者によって必要とされないからである。機械を使用する結果、単に消費された価値並びに全資本に対する利潤に等しい価値を再生産することが、彼にとり必要であろう。七、五〇〇|磅《ポンド》が、一五、〇〇〇|磅《ポンド》が以前になしたと同様に有効に、このことをなすであろうが、この場合は前の例といかなる点でも異らないからである。しかしながら、毛織布に対する需要の大いさは以前と同一であろう、と言われるかもしれず、またどこからこの供給が来るか、と問われるかもしれない。しかし誰によってこの毛織布は需要されるであろうか? 農業者達及び他の必要品生産者達――毛織布取得の手段としてこれらの必要品の生産にその資本を用いる農業者その他の必要品生産者によって、需要される。すなわち彼らは穀物及び必要品を毛織物業者に毛織布と引換えに与え、そして彼は、その雇傭する労働者に、その労働が彼に与えた所の毛織布と引換えにこれらのものを与えたのである。
 この取引は今終りを告げるであろう。毛織物業者は、雇傭すべき人間はより[#「より」に傍点]少く処分すべき毛織布はより[#「より」に傍点]少いのであるから、食物及び衣服を求めないであろう。単に一目的を達する手段として必要品を生産したに過ぎない所の農業者その他の者は、その資本をかく用いることによってはもはや毛織布を取得し得ず、従って彼らは、自らその資本を毛織布の生産に用いるか、または真に求められている貨物が供給されるために他人にそれを貸付けるであろう。そして何人もそれに対し支払手段を有たず、またはそれに対し需要のない所のものは、生産されざるに至るであろう。かくてこのことは吾々を同一の結果に導くこととなる、労働に対する需要は減少し、労働の支持にとり必要な貨物は同じ程度に豊富には生産されないであろう。
 もしかかる見解が正しいならばこういうことになる。すなわち第一、機械の発明及びその有用な使用は、たとえそれはまもなくして、その純生産物の価値を増加しないかもしれず、また増加しないであろうとはいえ、国の純生産物の増加に導くこと。
 第二、一国の純生産物の増加は総生産物の減少と両立するものであり、そして、機械を用いんとする動機は、もしそれが純生産物を増加せしめるならば、たとえそれは総生産物の分量とその価値との双方を減少せしめるかもしれず、またしばしば減少せしめなければならぬとはいえ、常にその使用を保証するに足るものであること。
 第三、機械の使用はしばしば労働者の利益に対し有害であるという、労働階級の抱いている意見は、偏見や誤謬に基くものではなく、経済学上の正しい諸原理に一致するものであること。
 第四、もし機械の使用の結果たる生産手段の改良が、一国の純生産物を、総生産物を減少せしめないほどの程度において増加せしめるならば、(常に私は貨物の分量を意味し価値は意味しない、)すべての階級の境遇は改善されるであろう。地主と資本家とは、地代と利潤との増加によってではなく、同一の地代と利潤とを、価値が極めて下落した貨物に支出することから生ずる便益によって、利得するであろう、しかる
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