く所有者を変えるというだけでは、租税を支払うべき何らの基金も発生し得ないことは、明かである。土地の生産物に対し支払う収入は、その生産物を購買する者の手中に既に存在している。そしてもし生計費がより[#「より」に傍点]低いならば、それは依然彼らの手中に止り、その手中において、あたかもより[#「より」に傍点]高い価格によってそれが地主の手に移転される時とまさに同様に、租税の支払に宛てられ得るであろう。』
粗生生産物と製造貨物との相違について種々なる考察をなした後、マルサス氏は問う、『しからば、ドゥ・シスモンディ氏と共に、地代をもって、純粋に名目的な価値を有つ唯一の労働生産物であり、そして売手が特別の特権の結果として取得する価格騰貴の単なる結果であると考えることは、可能であるか? またはビウキャナン氏と共に、それをもって、国民的富に対する何らの附加でもなく、単に、地主にとってのみ有利でありかつそれに比例して消費者にとっては有害な価値の移転に過ぎぬと考えることは、可能であるか?』(註)
[#ここから2字下げ]
(註)『地代の性質及び増進に関する研究』一五頁
[#ここで字下げ終わり]
私は地代を論ずる際に既にこの問題に関する私見を述べた、そしてここで更に私が附加せねばならぬことは、単に、地代は私が解する意味での価値の創造であるが富の創造ではない、ということだけである。もし穀価が、そのある部分を生産するの困難によって、一クヲタアにつき四|磅《ポンド》から五|磅《ポンド》に騰貴するならば、百万クヲタアは四、〇〇〇、〇〇〇|磅《ポンド》ではなく五、〇〇〇、〇〇〇|磅《ポンド》の価値を有ち、そしてこの穀価は、啻により[#「より」に傍点]多くの貨幣と交換されるのみならず、またより[#「より」に傍点]多くのあらゆる他の貨物と交換されるであろうから、所有者はより[#「より」に傍点]多額の価値を得るであろう。そしてその結果として他の何人もより[#「より」に傍点]少い価値を有つことにはならないから、社会は全体としてより[#「より」に傍点]多くの価値を有するに至るのであり、そしてその意味において地代は価値の創造である。しかしこの価値は、それが社会の富、すなわち必要品、便宜品、及び享楽品に何物をも附加しない限りにおいて、名目的である。吾々は以前とまさに同一量の貨物を有ち――そしてより[#「より」に傍点]以上は有たない――そして同一の百万クヲタアの穀物を有つであろう。しかしそれが一クヲタアにつき四|磅《ポンド》ではなく五|磅《ポンド》で評価される結果は、穀物及び諸貨物の価値の一部分を、その以前の所有者から地主に移転することとなるであろう。かくて地代は価値の創造であるが富の創造ではない。それは国の資源には何物をも附加せず、それは国をして陸海軍を維持し得せしめない。けだし、その土地がより[#「より」に傍点]優等の質であり、かつ地代を生み出さずに同一の資本を用い得る場合には、国ははじめてより[#「より」に傍点]多くの基金を自由に処分し得ることとなるのであるからである。
かくてシスモンディ氏及びビウキャナン氏が――というのは両者の意見は実質上同一であるから――地代をもって純粋に名目的な価値であるとし、かつ国民的富に対する何らの附加をもなすものではなくして、単に地主にとってのみ有利であり、それに比例して消費者にとっては有害な価値の移転に過ぎないとしたのは、正しかったと認められなければならない。
(一四五)マルサス氏の『研究』の他の部分において彼は曰く、『地代の直接原因は、明かに、粗生生産物が市場で売れる価格が生産費を越す超過である。』また他の場所において曰く、『粗生生産物の高い価格の原因は三つであると言い得よう、――
『第一に、かつ主として、それによって、土地の上に用いられる人間の支持のために必要とされるよりもより[#「より」に傍点]多量の生活の必要品を、土壌が生産せしめられ得るという、土壌の性質。
『第二、それ自身に対する需要を作り出し、または生産された必要品の分量に比例して需要者数を出現せしめ得るという、生活の必要品に特有な性質。
『そして第三、最も肥沃な土地の比較的稀少性。』
穀物の高い価格を論ずるに当り、マルサス氏は明かに、一クヲタアまたは一ブッシェルについての価格を意味せずして、むしろ全生産物が売れる価格が、その生産費――『その生産費』なる語には常に労賃並びに利潤が含まれる、――を越す超過を意味している。一クヲタアにつき三|磅《ポンド》一〇シリングの穀物百五十クヲタアは、もし生産費が双方の場合において同一であるならば、四|磅《ポンド》の穀物一、〇〇〇クヲタアよりもより[#「より」に傍点]大なる地代を地主に与えるのであろう。
かくて高い価格は、かかる表現がこの意味に用いられる場合には、地代の原因[#「原因」に傍点]とは呼ばれ得ない。『地代の直接的原因は明かに、粗生生産物が市場で売れる価格が生産費を越す超過である。』とは言われない、けだしその超過がそれ自身地代であるからである。地代をもってマルサス氏は、『全生産の価値の中《うち》、その種類の何たるかを問わずその土地の耕作に属するすべての出費――その中には、当該時の農業資本の日常かつ通常利潤率で測定された所の、投下資本の利潤が含まれる――が支払われた後に、土地の所有主に残る部分』と定義した。さてこの超過が売れる額が幾干であろうと、それは貨幣地代である。それはマルサス氏が、『粗生生産物が市場で売れる価格が生産費を越す超過』という語で意味している所のものである。従って生産費に比較して粗生生産物の価格を高めるべき原因の研究においては、吾々は、地代を高めるべき原因を研究しているのである。
(一四六)マルサス氏が挙げている地代の騰貴の第一原因、すなわち、『それによって、土地の上に用いられる人間の支持のために必要とされるよりもより[#「より」に傍点]多量の生活の必要品を、土壌が生産せしめられ得るという、土壌の性質』に関して彼は次の如き考察をなしている。『吾々はなお、何故《なにゆえ》に消費と供給とが価格をかくも著しく生産費を超過せしめる如きものであるか、ということを知ろうと欲するが、その主たる原因は明かに生活の必要品を生産するに当っての土壌の肥沃度[#「肥沃度」に傍点]である。この豊饒を減少し、土壌の肥沃度を減少せよ、しからばこの超過は減少するであろう。それを更に減少せよ、しからばそれは消失するであろう。』しかり、必要品の超過は減少し消失するであろう、しかしそれが問題であるのではない。問題はその生産費以上に出ずるその価格超過が減少し消失するか否か、ということである。けだし貨幣地代はこのこと如何《いかん》に依存するからである。マルサス氏は次の推論においても正鵠を得ているであろうか? すなわち分量の超過が減少し消失するであろうから、従って『生産費を超過する生活必要品の高い価格[#「高い価格」に傍点]の原因は、その稀少よりはむしろその豊富の中に、見出さるべきであり、そして、啻に人為的独占によって惹起された高い価格とは本質的に異るのみならず、更にまた、必然的独占物と呼ばれ得べき所の、食物に関係なき土地の特殊の生産物の高い価格とも本質的に異るものである』と。
土地の肥沃度及びその生産物の豊饒が、生産費を越すその価格の超過の減少、――換言すれば地代の減少、を伴うことなくして減少するという、事情はないであろうか? もしかかる事情があるならば、マルサス氏の命題は余りにも一般的に過ぎる。けだし彼は、地代は土地の肥沃度の増加につれて騰貴し、その肥沃度の減少につれて下落するということを、すべての事情の下において真実な一般的原理なりと述べているように、私には思われるからである。
もし、ある一定の農地について、土地が豊富に産出するに比例して、全生産物中のより[#「より」に傍点]大なる分量が地主に支払われるならば、マルサス氏は疑いもなく正しいであろう。しかしその反対が事実である。すなわち最も肥沃な土地のみが耕作されている時には、地主は全生産物の最小の比例と最小の価値とを受取り、そして全生産物に対する地主の分前も、彼れの受領する価値も、逓増的に増加するのは、より[#「より」に傍点]劣等な土地が、増加しつつある人口を養うために必要とされる時に限られるのである。
穀物に対する需要は百万クヲタアであり、そしてそれは実際に耕作に引入れられている土地の生産物であると仮定しよう。そこで、すべての土地の肥沃度が、このまさに同じ土地が九〇〇、〇〇〇クヲタアしか産出しないほどに減じたと仮定しよう。需要は百万クヲタアであるから、穀価は騰貴し、優等地が引続き百万クヲタアを生産していた場合よりも速かに、劣等地に必然的に頼らなければならない。しかし、地代騰貴の原因であり、かつ地主の受取る穀物量が減少しても地代を引上げるものは、この劣等地を耕作するという必要である。地代は、記憶すべきであるが、耕作地の絶対的肥沃度には比例せず、その相対的肥沃度に比例するものである。資本をより[#「より」に傍点]劣等な土地に駆るすべての原因は、優等地に対する地代を引上げるに相違ない。けだし地代の原因は、マルサス氏によってその第三命題において述べられている如くに、『最も肥沃な土地の比較的稀少性』であるからである。穀価は当然その最終部分を生産する困難と共に騰貴し、そして一特定農場において生産される全分量は減少しても、その価値は増加するであろう。しかし、労賃と利潤との合計は引続き常に同一の価値を有つために(註一)より[#「より」に傍点]肥沃な土地においては生産費は増加しないであろうから、生産費を越す価格の超過、または換言すれば地代は、資本、人口及び需要の大きな減少によって妨げられない限り、土地の肥沃度の減少と共に騰貴しなければならぬことは、明かである。かくてマルサス氏の命題が正しいとは思われない。すなわち地代は土地の肥沃度の増減と共に、直接的にかつ必然的に騰落するものではなく、その肥沃度の増加がそれをして、ある将来の時において、増加せる地代を支払い得せしめるに過ぎない。ほとんど肥沃度のない土地は決して何らの地代をも生じ得ない。適度の肥沃度を有つ土地は人口が増加するにつれて適度の地代をまた大なる肥沃度を有つ土地は高い地代を生ぜしめられ得よう。しかし高い地代を生じ得るということと実際にそれを支払うということとは、別物である。土地が適度の収穫を産出するよりも、土地が極めて肥沃な国における方が、地代がより[#「より」に傍点]低いこともあろう、けだし地代は絶対的肥沃度よりはむしろ相対的肥沃度に、――生産物の豊富よりはむしろその価値に、――比例するからである(註二)。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
(註一)私は、穀物の生産にいかなる難易があろうとも、労賃と利潤との合計は同一の価値を有つということを説明せんと努めた。労賃が騰貴する時にはそれは常に利潤を犠牲にしてであり、またそれが下落する時には利潤は常に騰貴するのである。
(註二)マルサス氏は、最近の著作において、この章句で私が彼を誤解しているが、けだし彼は、地代は土地の肥沃度の増減と共に直接的にかつ必然的に騰落すると、言おうとはしているのでないから、と述べている。もしそうならば、私は確かに彼を誤解していた。マルサス氏の言葉は次の如くである、『この豊饒を減少し、土壌の肥沃度を減少せよ、しからばこの超過(地代)は減少するであろう。それを更に減少せよ、しからばそれは消失するであろう。』マルサス氏はその命題を条件的には述べず、絶対的に述べている。私は、土壌の肥沃度の減少は地代の増加と両立し得ない、と彼が主張しているように私に理解される所に、反対したのである。
[#ここで字下げ終わり]
マルサス氏は、自然的また必然的独占物と呼ばれ得る土地の、特殊の生産物を産出する土地に対する地代は、生活の必要品を産出する土地の地代を、左右するものとは本質
前へ
次へ
全70ページ中65ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
リカードウ デイヴィッド の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング