幣とは、自らそれを代表するといっている金と等しい価値を有つ紙幣のことである。金に代えての紙の使用は最も費用を要する媒介物に代えるに最も低廉なるものをもってし、そして国をして、いかなる個人にも損失せしめずに、それが以前にこの目的に用いたすべての金を粗生原料品や器具や食物と交換し得せしめるが、これらの物の使用にによってその富もその享楽品も増加されるのである。
(一二八)国民的見地からすれば、この良く調整された紙幣の発行者が政府であろうと銀行であろうと、それは何ら重要なことではなく、それがそのいずれによって発行されてもそれは全体として同等に富を生産するが、しかし個人の利益についてはそうではない。市場利子率が七%であり国家が年々ある特定の出費のために年々七〇、〇〇〇|磅《ポンド》を必要とする国においては、その国の個人が年々この七〇、〇〇〇|磅《ポンド》を支払うように課税されなければならぬか、または彼らが租税なくしてこれを調達し得るかは、彼らにとって重要な問題である。遠征隊を装備するに百万の貨幣が必要とされると仮定せよ。もし国家が百万の紙幣を発行し百万の鋳貨を排除するならば、遠征隊は人民に対し何らの負担を課することなくして装備されるであろうが、しかしもし銀行が百万の紙幣を発行してそれを政府に七%で貸付け、よってもって百万の鋳貨を排除するならば、国は年々七〇、〇〇〇|磅《ポンド》という継続的租税を課せられるであろう。すなわち人民は租税を支払い、銀行はそれを受取り、そして社会はいずれの場合においてもその富の程度は以前と同一であろう。遠征隊は、我国の制度の改善によって、百万の価値を有つ資本を、鋳貨の形において不生産的ならしめておくことなく、これを貨物の形において生産的ならしめることによって、真実に装備されたのである。しかし利益は常に紙幣発行者に帰するであろう。そして国家は人民を代表するから、もし銀行ではなく国家が百万を発行していたならば、人民はこの租税を免れていたことであろう。
私は既に、もし紙幣発行権が濫用されないという完全な保証があるならば、誰によってそれが発行されるかは、全体としての国の富については何ら重要ではないということを観た。そして今私は、公衆は、発行者が国家であり商人や銀行業者の会社でないことに、直接の利益を有つことを示した。しかしながら危険は、この権能が銀行会社の手中にある場合よりも政府の手中にある場合の方がより[#「より」に傍点]濫用されやすい、ということである。会社は法律の統制に服することがより[#「より」に傍点]多く、そしてたとえ慎慮の限度を越えてその発行額が拡張するのがその利益であるとしても、それは地金または正金を請求する個人の権能によって制限され妨げられるであろう、と言われている。政府が貨幣発行の特権を有つ場合にはこの妨げは長くは尊重されず、政府は将来の安固よりもむしろ現在の便宜を考える傾きが有り過ぎ、従ってそれは、便宜という理由に名を藉《か》りて、その発行額を統制する妨げを除去せんとする気になり過ぎるかもしれない、と論ぜられている。
専断な政府の下においてはこの反対論は大きな力を有つであろうが、しかし開けた立法府を有つ自由な国においては、紙幣発行権は、所持人の意志に従って兌換するという必要な抑制の下にあって、その特別の目的のために任命された委員の手に安全に託され得、そして彼らは大臣の支配から全然独立せしめられることであろう。
減債基金は、単に議会に対してのみ責任を有つ委員によって管理され、そして彼らに委任された貨幣の投資は極めて規則正しく行われている。紙幣の発行が同様の管理の下に置かれた場合に、それがこれと等しく真面目に調整され得べきことを、疑うべきいかなる理由が有り得るであろうか?
(一二九)紙幣の発行によって国家従ってまた公衆に対して生ずる利益は、公衆がその利子を支払う国債の一部分を無利子の負担たらしめるから、十分に明かであるが、しかもそれは、銀行紙幣の一部分の発行方法たる所の、商人が貨幣を借り、またその手形を割引いてもらうことを出来なくさせるから、商業に対し不利である、と言われるかもしれない。
しかしながらこれは、もし銀行が貨幣を貸さなければそれを借りることは出来ず、そして市場利子率及び利潤率は、貨幣の発行額とそれが発行される通路に依存するものである、と想像することである。しかし一国はその支払手段さえ有れば、毛織布や葡萄酒やその他の貨物に事欠かないと同じく、借手が十分の担保を提供しかつそれに対して喜んで市場利子率を支払う気ならば、貸付けらるべき貨幣にも事欠かないであろう。
本書の他の部分において、私は一貨幣の真実価値は、その生産者のある者の享受すべき偶然的便益でではなく、最も恵《めぐま》れない生産者の当面する真実の困難によって、左右されることを、説明せんと努めた。貨幣に対する利子についてもそうである。それは銀行が貸付けようとする率――それが五%であろうと四%であろうとまたは三%であろうと、――によってではなく、資本の使用によって作られ得、かつ貨幣の量または価値とは全然無関係の、利潤率によって、左右されるのである。銀行が百万を貸付けようと千万を貸付けようとまたは一億を貸付けようと、それは永久的には市場利子率を変動せしめはせず、単にそれがかくして発行した貨幣価値を変動せしめるのみであろう。一つの場合においては、同じ事業を営むために、他の場合に必要とさるべき貨幣よりも一〇倍または二〇倍より[#「より」に傍点]多くの貨幣が必要とされるかもしれない、かくて貨幣を銀行に借り入れんことを申込むことは、それの使用によって作られ得べき利潤の率と、銀行がそれを喜んで貸付けようとする率との間の比較に依存する。もしも銀行が市場利子率以下を課するならば、銀行の有つ貨幣額で貸付け得ないものはない、――もし銀行がその率以上を課するならば、浪費者や放蕩者の他は誰も銀行から借り入れないであろう。従って吾々は、市場利子率が、銀行が一律に貸出す率たる五%を超過する時には、割引課は貸付請求者によって包囲され、反対に市場率が一時的であるといえども五%である時には、この課の事務員には仕事がないことを見出すのである。
かくて過ぐる二十年の間、銀行が、貨幣をもって商人を援助することによって、商業にかくも多くの助力を与え来った、と言われている理由は、けだしその全期間に亘って、銀行が、市場利子率以下で、すなわち商人が他で借入れ得た率以下で、貨幣を貸付けたからである。しかし――私は告白するが、――このことは銀行なる制度の賛成論であるよりはむしろその反対論であるように、私には思われるのである。
毛織物業者の半分に市場価格以下で羊毛を規則的に供給すべき一制度については、吾々はこれを何と評すべきであろうか? それはいかなる利益を社会に対して有つであろうか? それは我国の取引を拡張しないであろうが、けだしそれが羊毛に対し市場価格を課したとしてもそれは等しく購買されたからである。それは消費者に対し毛織布の価格を低下せしめないが、それはけだしその価格は、前述の如くに、利益を受けること最も少き者にとってのその生産費によって左右されるからである。かくてその唯一の影響は、毛織物業者の一部分の利潤を通常利潤率以上に増加せしめることであろう。この制度はその公正な利潤を奪われ、そして社会の他の部分は同一の程度に利益を受けるであろう。さてかかるものがまさに我国の銀行制度の影響である。一利子率が、市場で借りられ得る率以下に決定されており、そして銀行は、この率で貸付けなければならず、しからざれば全然貸付けてはならないのである。銀行制度というものの性質からして、それはかくの如くして処分し得るに過ぎない大きな資金を有っている。そして我国の商人の一部分は、市場価格によってのみ影響されなければならぬ者よりより[#「より」に傍点]少い費用で、取引の用具を手に入れ得るために、不当に、そして国に対しては不利益になるように、利益を受けているのである。
全会社が営み得る全事業は、その資本、すなわち、生産に用いられる粗生原料品、機械、食物、船舶等、の分量に依存する。良く調整された紙幣が行われるに至った後は、これらは銀行業の作用によっては増加されも減少されもし得ない。かくてもし国家がその国の紙幣を発行するものとするならば、それが一枚の手形も割引かず一シリングを公衆に貸付けなくとも、吾々は同一量の粗生原料品や機械や食物や船舶を有っているはずであるから、取引額には何らの変動も起らないであろう。そしてまたおそらく、法定率が市場率以下である時には実際必ず法定率たる五%ではなく、貸手と借手との間の市場における公正な競争の結果たる六、七、または八%で、同額の貨幣が貸付けられ得よう。
アダム・スミスは、現金勘定によってなすべきスコットランド式資金融通方法が、イングランド式に勝ることから、商人が得る便益について、語っている。かかる現金勘定は、スコットランドの銀行業者がその顧客に、彼らのために彼が割引する手形を加えて、与える所の信用である。しかし銀行業者は、彼が貨幣を前貸してそれを一つの方法で流通界へ送出すに比例して、他の方法でそれだけを発行することを妨げられるのであるから、その便益が何であるかを認知することは困難である。もし全流通が単に百万の紙幣を支え得るに過ぎないならば、百万が流通されるに過ぎないであろう。そして銀行家にとっても商人にとっても、全体が手形の割引によって発行されるか、または、一部分がかくの如くして発行せられ、その残りがかかる現金勘定によって発行されるかは、少しも真実の重要性を有ち得ないのである。
(一三〇)通貨として用いられる金銀二金属の問題について数語を費すことがおそらく必要であろうが、けだし特に、この問題は、多くの人の心において、簡単明瞭な通貨原理を混乱させるように思われるからである。スミス博士は曰く、『イングランドにおいては、金が貨幣に鋳造されて後久しい間金は法貨と看做されなかった。金及び銀の価値比例は、いかなる公の法律または布告によっても定められず、市場によって決定されるに委ねられていた。もし債務者が金での支払を申出たならば、債権者はかかる支払を全く拒絶するか、または彼とその債務者が同意し得るような金の評価で、それを受容し得たであろう。』
かかる事態においては、ギニイ貨は、金と銀との相対的市場価値の変動に全く依存して、時に二二シリングまたはそれ以上に通用し、また時に一八シリングまたはそれ以下に通用するかもしれないことは、明かである。銀の価値のあらゆる変動並びに金の価値のあらゆる変動もまた、金貨で計られるであろう、――あたかも銀が不変であり、そしてあたかも金のみが騰落を蒙るに過ぎないかの如くに見えるであろう。かくて一ギニイ貨が一八シリングではなく二二シリングに通用しても、金の価値が変動しなかったかもしれず、変動は全く銀に限られ従って二二シリングは以前に一八シリングが有した以上の価値を有たなかったのかもしれない。またこれに反し、全変動が金にあったのかもしれず、一八シリングに値したギニイ貨が二二シリングの価値に騰貴したのかもしれない。
もし吾々が今、この銀通貨が剽削《ひょうさく》によって削減されかつその分量も増加されたと仮定すれば、一ギニイ貨は三〇シリングに通用するかもしれない。けだしかかる削減された貨幣の三〇シリング中にある銀は、一ギニイ貨中にある金以上の価値は有たないかもしれぬからである。銀通貨をその造幣価値にまで恢復することによって銀貨は騰貴するであろう。しかし外見は金が下落したように見えるであろうが、それは一ギニイ貨はおそらく良質のシリング貨の二一と同一の価値しか有たないからである。
もし金もまた一法貨とされ、そしてあらゆる債務者は自由に、その債務を、その負う二一|磅《ポンド》ごとに四二〇シリングの銀貨または二〇ギニイの金貨を支払うことによって弁済し得るならば、
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