ば、多量の生産的労働を用いる結果その国に起る利益はいかなるものであろう? あらゆる国の土地及び労働の全生産物は三部分に分たれ、その中《うち》一部分は労賃に、もう一つの部分は利潤に、そして残りの部分は地代に当てられる。租税または貯蓄のために控除がなされ得るのは最後の二つの部分からのみであり、最初のものは、適度である場合には、常に必要生産費をなしているのである(註)。その利潤が年々二、〇〇〇|磅《ポンド》である所の二〇、〇〇〇|磅《ポンド》の資本を有っている個人にとっては、あらゆる場合にその利潤が二、〇〇〇|磅《ポンド》以下に減少しない限り、彼れの資本が百人を雇傭しようと一千人を雇傭しようと、生産された貨物が一〇、〇〇〇|磅《ポンド》に売れようと二〇、〇〇〇|磅《ポンド》に売れようと、全くどうでもよいことであろう。国民の真実の利益も同様ではないか? その純真実所得すなわちその地代及び利潤が同一である限り、国民が一千万の住民から成ろうと一千二百万の住民から成ろうと、大したことではない。国民が陸海軍及びすべての種類の不生産労働を支持する力はその純所得に比例しなければならず、その総所得には比例しない。もし五百万人が一千万人に必要なだけの食物や衣服を生産し得るならば、五百万人に対する食物及び衣服は純収入であろう。この同じ純収入を生産するに七百万人が必要とされるということ、すなわち一千二百万人に足る食物や衣服を生産するに七百万人が用いられるということは、国にとって何らかの利益であろうか? 五百万人の食物や衣服は依然として純収入であろう。より[#「より」に傍点]多数の人を雇傭することは、吾々をして我が陸海軍に一兵を加え得せしめもせず、また租税に一ギニイ余計に納め得しめもしないであろう。
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(註)おそらくこれは余りに強く表現されている、けだし一般に絶対必要生産費以上のものが、労賃の名の下に労働者に割当てられているからである。その場合には、国の純生産物の一部分は労働者によって受領され、かつ彼によって貯蓄または支出され得る。またはそれは彼をして国の防禦に貢献し得しめるであろう。
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アダム・スミスが最大量の勤労を動かす資本用途をもってよしとしているのは、大なる人口より生ずる何らかの想像上の利益、またはより[#「より」に傍点]多数の人類の享受し得べき幸福を根拠として云うのではなく、明かにそれが国力を増進するという根拠による(註)、けだし彼は曰く、『あらゆる国の富、及び力が富に依存する限りにおいてその力は、常に、その年々の生産物の価値に、すべての租税が窮極的にそこから支払わねばならぬ資金に、比例しなければならない。』と。しかしながら、租税支払能力は純収入に比例するものであり総収入に比例するものではないことは、明かでなければならない。
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(註)セイ氏は私を全然誤解し、私がかくも多くの人類の幸福をどうでもよいことと考えたものと想像している。私がアダム・スミスの拠《よ》って立つ特定の論拠に私の記述を限定していたことは、この本文が十分に示すものと私は考える。
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(一二三)すべての国への職業の分配において、より[#「より」に傍点]貧しい国民の資本は、多量の労働が国内で支持される職業に当然用いられるであろう、けだしかかる国においては、増加しつつある人口に対する食物及び必要品は最も容易に所得され得るからである。これに反し、食物が高価な富める国においては、資本は、貿易が自由な時には、最小量の労働が国内で維持されなければならぬ所の、運送業、遠隔外国貿易、及び高価な機械が必要とされる職業の如きへ、すなわち利潤が資本に比例して、用いられる労働量には比例しない職業へ、当然流入するであろう(註)。
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(註)『自然的事態が資本を、最大の利潤の得られる職業へではなくて、その作用が社会に対し最も有利な職業へ、引寄せるのは、幸なことである。』――第一巻、一二二頁。セイ氏は、個人に対しては最も有利であるが、国家に対しては最も有利ではないこれらの職業はいかなるものであるかを、吾々に語っていない。もし資本は少いが肥沃な土地は豊富に有っている国が早くから外国貿易に従事していないならば、その理由は、それが個人に対して有利でなく、従って国家に対してもまた有利でないからである。
[#ここで字下げ終わり]
地代の性質からして、最後に耕作される土地を除くあらゆる土地での一定の農業資本は、製造業及び商業に用いられる等額の資本よりもより[#「より」に傍点]大なる労働量を動かすものであることは、私は認めるけれども、しかも私は、内国商業に従事する一資本の雇傭する労働量と、外国貿易に従事する等量の資本の雇傭する労働量とに、ある差異があるということは、認め得ない。
アダム・スミスは曰く、『スコットランドの製造品をロンドンへ送りそしてイングランドの穀物及び製造品をエディンバラへ持ち帰る資本は必然的に、かかる作用をなすごとに、共に大英国の農業または製造業に用いられていた二つの英国資本に代位する。
『国内消費のための外国財貨の購買に用いられる資本は、この購買が内国産業の生産物をもってなされる時には、また、かかる作用をなすごとに、二つの異る資本に代位するが、しかし単にその中の一つが内国産業を支持するに用いられているにすぎない。英国財貨をポルトガルへ送りそしてポルトガル財貨を大英国に持ち帰る資本は、かかる作用をなすごとに、一つの英国資本に代位するにすぎず、他方はポルトガルの資本である。従って、消費物の外国貿易の囘帰が内国商業の如くに早くとも、それに用いられる資本は、その国の産業または生産労働に対して、単に半分の奨励を与えるに過ぎないであろう。』
この議論は私には誤謬であるように思われる。けだし一つのポルトガル資本と一つの英国資本との二つの資本がスミス博士の想像している如くに使用されるとはいえ、なお内国商業に用いられるものの二倍の資本が外国貿易に用いられるからである。スコットランドは、亜麻布の製造に一千|磅《ポンド》の資本を用い、それをイングランドで絹製品の製造に用いられる同様の資本の生産物と交換する、と仮定すれば、二千|磅《ポンド》とそれに比例する労働量とが、この二国によって用いられるであろう。いまイングランドは、それが以前にスコットランドへ輸出していた絹製品に対して、ドイツからより[#「より」に傍点]多くの亜麻布を輸入し得ることを発見し、またスコットランドは、それが以前にイングランドから得ていたよりもより[#「より」に傍点]多くの絹製品をその亜麻布と引換にフランスから得ることが出来るということを発見すると仮定すれば、イングランドとスコットランドとは直ちに相互に取引することを止め、そして消費物の内国商業は消費物の外国貿易に変更されないであろうか? しかし、ドイツの資本とフランスの資本との二つの追加資本がこの取引に入り込むとはいえ、同一額のスコットランド及びイングランドの資本が引続き使用され、そしてそれはそれが内国商業に従事していた時と同一量の勤労を動かさないであろうか?
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第二十七章 通貨及び銀行について
(一二四)通貨に関しては既に極めて多く論ぜられ来っているから、かかる主題に注意を払うものの中《うち》、偏見を有つものの他は、その真実の諸原理を知らないものはない。従って私はただ、その量及び価値を左右する一般的諸法則のあるものを瞥見《べっけん》するに止めるであろう。
金及び銀は、すべての他の貨物と同様に、それを生産しかつ市場に齎すに必要な労働量に比例してのみ、価値を有つ。金は銀よりも約十五倍より[#「より」に傍点]高価であるが、それはそれに対する需要がより[#「より」に傍点]大であるからでもなく、また銀の供給が金のそれよりも十五倍より[#「より」に傍点]大であるからでもなくして、もっぱら、その一定量を獲得するに十五倍の労働量が必要であるからである。
一国において用いられ得る貨幣の量はその価値に依存しなければならぬ。すなわちもし貨物の流通のために単に金のみが用いられるならば、銀(のみ――編者挿入)が同一の目的に用いられる場合に必要な量のわずかに十五分の一の量が必要とされるであろう。
流通高は過剰になるほど豊富には決してなり得ない。けだしその価値を減少せしめることによって、同一の比例においてその分量は増加されるし、かつその価値を増加せしめることによって、その分量は減少されるからである。
国家が貨幣を鋳造しかつ何らの造幣料も課さない間は、貨幣は、等しい量目と品位とを有つ同一金属のある他の片と、同一の価値を有つであろう。しかしもし国家が鋳造料を課すならば、鋳造された貨幣片は一般に、課せられた全造幣料だけ鋳造されない金属片の価値を超過するであろうが、それはけだし、それを獲得するに、より[#「より」に傍点]多量の労働または同じことであるがより[#「より」に傍点]多量の労働の生産物の価値を必要とするからである。
国家のみが鋳造をする間は、この造幣料の賦課には何らの限界も有り得ない。けだし鋳貨の分量を制限すればそれは想像し得るいかなる価値にまでも高められ得るからである。
(一二五)貨幣が流通するのはこの原理による。すなわち紙幣に対する賦課の全額は造幣料と考え得よう。それは何らの内在価値も有たないが、しかもその分量の制限によって、その交換価値は等しい名称を有つ鋳貨またはその鋳貨に含まれる地金と同一である。また同一の原則すなわちその分量の制限によって、削減された鋳貨ももしそれが法定の量目と品位とを有っている場合にはそれが有つべき価値で流通するであろうが、それが実際に含有する金属量の価値では流通しないであろう。従って英国造幣史において吾々は通貨がその削減と同一の比例で減価しなかったのを見出すのである。その理由は、それがその内在価値の減少に比例してその分量を増加されなかったことである(註)。
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(註)私が金貨について言うことは何であろうとすべて、等しく銀貨にも適用し得る。しかしあらゆる場合において両者を挙げる必要はない。
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紙幣の発行においては、分量制限の原則から生ずる結果を十分に銘記しておく以上に重要なことはない。五十年後には、今日銀行の理事及び大臣が、議会ででもまた議会の委員会ででも、英蘭《イングランド》銀行による銀行券の発行は、かかる銀行券の所持者の正金または地金との兌換請求権によって妨げられてはいないから、貨物や地金や外国為替の価格には何らの影響をも及ぼさずまた及ぼし得ないと、真面目に主張したということは、ほとんど信ぜられないであろう。
銀行の設立以後は国家は独占的貨幣鋳造権または発行権を有たない。通貨は、鋳貨によってと同様に有効に紙幣によって増加され得る。従って、国家がその貨幣を削減しその分量を制限するとしても、それはその価値を保持し得ないであろうが、けだし銀行は同じく全貨幣流通量を増加せしめる権能を有っているからである。
かかる原則によって、紙幣はその価値を確保するために正金で支払われなければならぬという必要はなく、本位として宣布された金属の価値に従って紙幣量が調節されねばならぬことが必要であるに過ぎない、ということが分るであろう。もし本位が一定の量目及び品位の金であるならば、紙幣は、金の価値の下落するごとに、またはその結果においては同じことであるが、財貨の価格の騰貴するごとに、増加され得よう。
(一二六)スミス博士は曰く、『余りに多量の紙幣を発行し、その超過分は、金及び銀と兌換されるために絶えず囘帰しつつあったために、英蘭《イングランド》銀行は、引続き多年の間、一年八十万|磅《ポンド》から一百万|磅《ポンド》または平均約八十五万|磅《
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