現在地代を与えない土地は少しも残っていないということが真実であっても、以前にはかかる土地が存在していたに相違ないということもまた同様に真実であろう。そしてそれが存在するか否かはこの問題にとって少しも需要ではない。けだしもし資本の囘収並びにその通常利潤しか産出しない土地において用いられる資本が大英国にあるならば、それが古い土地において用いられていようと新しい土地において用いられていようと同一であるからである。もし一農業者が七年または十四年の期限で借地を契約するならば、彼は現在の穀物及び粗生生産物の価格で、彼が支出せざるを得ぬ資本部分を囘収し、その地代を支払い、かつ一般利潤を取得し得るのを知っているから、一〇、〇〇〇|磅《ポンド》の資本をそれに用いんと企て得よう。彼は最後の一、〇〇〇|磅《ポンド》が資本の通常利潤を得られるほど生産的に用いられ得ない限り、一一、〇〇〇|磅《ポンド》を用いることはしないであろう。彼れのこれを用いるか否かについての計算においては、彼は単に粗生生産物の価格がその出費と利潤を補償するに足るか否かを考察するに過ぎないが、それは彼は何らの附加的地代も支払う必要のないことを知っているからである。彼れの借地期限満了の際ですら、もし彼れの地主が、この一、〇〇〇|磅《ポンド》の附加額が用いられたからといって地代を要求するならば、彼はこの附加額を引去るであろうから、彼れの地代は騰貴しないであろう。けだし仮定によれば、彼はそれを用いることによって、単に、何らかの他の資本の用途によって彼が取得し得る通常利潤を得るに過ぎないからである。従って粗生生産物の価格がより[#「より」に傍点]以上に騰貴しない限り、または同じことであるが、普通かつ一般的の利潤率が下落しない限り、彼はそれに対して地代を支払う余裕を有たぬのである。
(一一五)もしアダム・スミスの明敏さがこの事実に向けられていたならば、彼は、地代が粗生生産物の価格の構成部分の一つであるとは主張しなかったであろう。けだし価格はどこでも、それに対して何らの地代も支払われないこの最終資本部分によって得られる報酬によって左右されるからである。もし彼がこの原理に考え及んでいたならば、彼は鉱山の地代と土地の地代とを左右する所の法則に区別を設けはしなかったであろう。
 彼は曰く、『炭坑がある地代を与え得るか否かは、一部分はその肥沃度に、そして一部分はその位置に依存する。いかなる種類の鉱山も、一定量の労働によって――それから得られ得る鉱石量が、同一量の労働によって同一種類の他の鉱山の大部分から得られ得る所のもの以上であるか以下であるかに従って、肥沃であるとも貧弱であるとも言われよう。有利な位置にある若干の炭坑も貧弱であるために採掘され得ない。その生産物は出費を償わない。それは利潤もまた地代も与え得ない。その生産物が、辛うじて労働に支払をなしその通常利潤と共にその採掘に使用された資本を補償するに足る如き炭坑が若干ある。それはこの事業の企業者には若干の利潤を支払うが、しかし何らの地代をも地主に支払わない。それは、自分自身が企業者であるためにそれに用いる資本の通常利潤を得る地主以外の何人によっても、有利には採掘され得ない。スコットランドにおける多くの炭坑はかかる仕方で採掘されており、それ以外の仕方では採掘され得ない。地主は他の何人にも若干の地代を支払わずにそれを採掘することを許さないであろうし、また何人も少しでも地代を支払う余裕はないであろう。
『この同じ国の他の炭坑は、十分肥沃ではあるが、その位置のために採掘され得ない。採掘費を支弁するに足る鉱物量が、通常のまたは通常以下の労働量によって、その炭坑から採取され得ようが、しかし人口が稀薄であり、道路か水運かの無い内地地方においては、この分量が売捌《うりさば》かれ得ないであろう。』地代の全原理はここに見事にかつ明截《めいせつ》に説明されており、そのあらゆる言葉は鉱山に対すると同様に土地に対しても適用され得る。しかも彼は主張する、『地上の地所においてはこれと異る。その生産物とその地代との両者の比例はその絶対的肥沃度に比例し、その相対的肥沃度には比例しない』と。しかし地代を与えない土地はないと仮定しよう。ある時は最劣等地に対する地代額は、資本の出費と資本の通常利潤を超過する生産物の価値とに、比例するであろう。かくて同一の原理がややより[#「より」に傍点]良い質を有ちまたはより[#「より」に傍点]有利な位置を有つ土地の地代を支配し、従ってこの土地の地代は、それよりも劣る土地の地代を、それが有つより[#「より」に傍点]優れた利益だけ超過するであろう。同一のことが第三等地の地代についても言い得、かくて最優等地に及ぶ。しからば、土地の地代として支払わるべき生産物部分を決定するものが土地の相対的肥沃度であるということは、鉱山の相対的肥沃度が鉱山地代として支払わるべきその生産物部分を決定するということと同様に、確実ではないか?
 アダム・スミスが採掘費並びに用いられた資本の通常利潤を支弁するに足るのみであるためその所有者が採掘する他ないような若干の鉱山がある、ということを明言した以上、吾々は、すべての鉱山生産物の価格を左右するものはかかる特定の鉱山であるということを彼が承認するものと予期すべきであろう。もし古い鉱山が、必要とされる石炭量を供給するに足りないならば、石炭の価格は騰貴し、そして、新しくかつより[#「より」に傍点]劣れる鉱山の所有者が、その鉱山の採掘によって資本の普通利潤を取得し得ることを見出すに至るまでは、それは騰貴し続けるであろう。もしその鉱山がかなり豊富であるならば、彼れの資本をかくの如く使用するのが自分の利益となるに至るまでは、騰貴は甚《はなはだ》しくはないであろう。しかし、もしそれがかなり豊富でないならば、価格は、その出費と資本の通常利潤とを支払うに足るだけの金銭を彼に与えるに至るまで騰貴しなければならないことは、明かである。かくて石炭の価格を左右するものは常に最も貧弱な鉱山であることがわかる。しかしながら、アダム・スミスは違った意見も有っている。すなわち曰く、『最も肥沃な炭坑はまた、その近隣のすべての他の炭坑の炭価を左右する。この炭坑の所有者と企業者とは、彼らのすべての隣人よりも下値に売ることによって、前者は彼がより[#「より」に傍点]大なる地代を取得することが出来、後者は彼がより[#「より」に傍点]大なる利潤を取得することが出来ることを見出す。彼らの隣人は、そう容易にそれに堪え得ず、それは彼らの地代と利潤とを常に減少せしめまた時にはそれを全然無くしてしまうとはいえ、直ちにそれと同一の価値で売らざるを得なくなる。若干の鉱山は全然抛棄され、他のものは地代を与え得ず、そして単に所有者によって採掘され得るのみである。』もし石炭に対する需要が減少するならば、またはもし新行程によって分量が増加されるならば、価格は下落し若干の鉱山は抛棄されるであろう。しかしあらゆる場合において価格は、地代を課せられることなくして採掘される鉱山の出費と利潤とを支払うに足らなければならない。従って価格を左右するものは最も貧弱な鉱山である。もちろん他の箇所においてはアダム・スミスはそう述べている、けだし彼は曰く、『ある長い期間に石炭が売られ得る最低の価格は、他のすべての貨物と同様に、その通常利潤と共に、石炭を市場に齎すに用いられねばならぬ資本を辛うじて囘収するに足る価格である。地主が何らの地代を得ず、彼が自分で採掘するか、それを全然放置しておく他ない炭坑においては、炭価は一般にほぼこの価格に近接していなければならない。』
(一一六)しかし、同一の事情、すなわちいかなる原因から起るにしろ、何らの地代もなくまたは極めて僅少な地代しかない鉱山を抛棄せざるを得ざらしめる所の、石炭の豊富及びその結果たる低廉はもし粗生生産物が同じく豊富でありかつその結果として低廉であるならば、何らの地代もなくまたは極めて僅少な地代しかない土地の耕作を抛棄せざるを得ざらしめるであろう。例えばもし馬鈴薯が人民の一般のかつ普通の食物となるならば、――米がある国においてはそうである如くに――今日耕作されている土地の四分の一または二分の一はおそらく直ちに抛棄されるであろう。けだしもし、アダム・スミスの言う如くに、『一エーカアの馬鈴薯は固形食物六千|封度《ポンド》すなわち一エーカアの小麦畑によって生産される分量の三倍を生産する』ならば、以前に小麦の耕作に用いられた土地において収穫され得た分量を消費するほどの人民の増加は、極めて長い間起り得ないからである。従って多くの土地は抛棄され地代は下落するであろう。そして同一分量の土地が耕作されそれに対して支払われる地代が以前の高さになり得るには、人口が二倍となりまたは三倍となることを要するであろう。
 総生産物が、三百人を養うべき馬鈴薯から成ろうと単に百人を養うに過ぎない小麦から成ろうと、そのあるより[#「より」に傍点]大なる比例が地主に支払われることはないであろう。けだしもし労働者の労賃が主として馬鈴薯の価格によって左右され小麦の価格によっては左右されないならば、生産費は大いに減少され従って労働者に支払った後の全総生産物の比例は大いに増加するであろうけれども、しかもその附加的比例のいかなる部分も地代とはならず、全体が常に利潤となるからである、――常に労賃が下落するにつれて騰貴しかつそれが騰貴するにつれて下落するのであろうから。小麦が耕作されようと、馬鈴薯が耕作されようと、地代は同一の原理によって支配されるであろう、――それは常に、同一の土地かまたは異る質の土地において、等量の資本をもって得られる生産物量の差違に等しく、従って、同一の質の土地が耕作されその相対的肥沃度または相対的便益に何らの変動も起らない間は、地代は総生産物に対して常に同一の比例を保つであろう。
 しかしながらアダム・スミスは、地主に帰する比例は生産費の減少によって増加し、従って地主の得る所は貧弱な生産物の場合よりも豊富な生産物の場合の方が、分量もより[#「より」に傍点]大であり割合もより[#「より」に傍点]大であろう、と主張している。彼は曰く、『米田は最も肥沃な麦畑よりも遥かにより[#「より」に傍点]多量の食物を生産する。毎年各々三十ブッシェルないし六十ブッシェルの二毛作が、一エーカアの通常の生産物であると云われている。従ってその耕作はより[#「より」に傍点]多くの労働を必要とするけれども、遥かにより[#「より」に傍点]多くの剰余がそのすべての労働を維持した後に残る。従って人々の普通のかつ愛好の植物性食物でありかつ耕作者達が主としてそれをもって維持されている所の米の産国においては、麦産国におけるよりも[#「麦産国におけるよりも」に傍点]、このより大なる剰余のより大なる分前が地主に帰属するはずである[#「このより大なる剰余のより大なる分前が地主に帰属するはずである」に傍点]。』
 ビウキャナン氏も述べている、『麦よりも豊富に産出する何らかの他の生産物が人民の一般の食物となるとすれば、それが豊富になるに比例して地主の地代が増加すべきことは全く明かである。』
 もし馬鈴薯が人民の一般の食物となるとすれば、地主は長い間地代の減少によって悩むであろう。彼らはおそらく現在受領しているだけの人間の生活資料を受領しないであろうが、他方その生活資料はその現在価値の三分の一に下落するであろう。しかし地主の地代の一部分がそれに費されるすべての製造貨物は、その原料たる粗生原料品の下落と、その時にその生産に当てらるべき土地の肥沃度の増加のみとから起る所の下落以外の下落を蒙らないであろう。
 人口の増加よりして以前と同一の質の土地が耕作されるに至る時は、地主は啻に以前と同一比例の生産物を取得するばかりでなく更にそれはまた以前と同一の価値を有つであろう。かくて地代は以前と同一であろうが、しかしながら利潤は、食物の価格従っ
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