払以後は、彼らは、穀価が少くとも奨励金に等しい額だけ下落しない限り、この率以上を受取るであろう。かくてこの租税と奨励金との結果は、貨物の価格を賦課された租税に等しい程度に騰貴せしめ、そして穀価を支払われた奨励金に等しい額だけ下落せしめることにあろう。農業と製造業との資本の分配には何らの永久的変動は起り得ないということも見られるであろうが、けだし資本額にも人口にも何らの変動がないからパンや製造品に対して正確に同一の需要があるからである。農業者の利潤は穀価の下落後は、一般水準以上では決してなく、また製造業者の利潤も製造財貨の騰貴後は、それ以下ではないであろう。かくして奨励金は、穀物の生産に用いられる資本を増加せしめるという結果を齎さず、また財貨の製造に用いられる資本を減ぜしめるという結果をも齎さないであろう。しかし地主の利益はいかに影響されるであろうか? 粗生生産物に対する租税が土地の貨幣地代はそのままにしておいてその穀物地代を下落せしめるのと同一の原理に基いて、租税の正反対物たる生産奨励金は、貨幣地代はそのままにしておいて穀物地代を騰貴せしめるであろう(註)。地主は同一の貨幣地代をもって、その製造財貨に対してはより[#「より」に傍点]大なる価格を支払わねばならず、その穀物に対してはより[#「より」に傍点]小なる価格を支払わねばならず、従って、彼はおそらくより[#「より」に傍点]富みもせずまたより[#「より」に傍点]貧しくもならないであろう。
[#ここから2字下げ]
(註)一七二―一七三頁を参照。[#第九章冒頭部分(五六)のこと]
[#ここで字下げ終わり]
(一一一)さてかかる方策が労働の労賃に何らかの影響を及ぼすか否かは、労働者が、貨物を購買する際にこの奨励金の結果として彼がその食物の価格の下落という形で受取るだけのものを租税に対して支払うか否か、という問題に依存するであろう。もしもこれら二つの分量が等しいならば、労賃は引続き不変であろうが、しかしもし課税貨物が労働者の消費するものでないならば、その労賃は下落し、彼れの雇傭者はこの差額だけ利得するであろう。しかしこれは彼れの雇傭者にとって何らの真実の利益でもない。それはもちろん労賃のあらゆる下落の必然的作用と同様に、彼れの利潤率を増加せしむべく作用するであろう。しかし労働者がこの奨励金を支払いかつ――記憶すべきであるが――徴収されねばならぬ基金に対して貢献する度が少いほど、彼れの雇傭者の貢献する度は多くならなければならない。換言すれば、彼は、この奨励金とより[#「より」に傍点]高い利潤率との両者の結果として受取るべきものを、その支出によってこの租税に貢献するであろう。彼は、啻に彼自身の租税分担のみならず更に彼れの労働者のそれに対する彼れの支払を償うために、より[#「より」に傍点]高い利潤率を得る。彼がその労働者の分担額に対して受取る報償は労賃の低減の形で、または同じことであるが利潤の増加の形で、現われる。彼自身ののそれに対する報償は、この奨励金により生ずる所の彼が消費する穀価の下落の形で、現われるのである。
(一一二)ここで、穀物の真実労働価値すなわち自然価値の変動により利潤に対して齎される影響と、課税及び奨励金による貨物の相対価値の変動より利潤に対して齎される影響とを述べるのは、正当であろう。もし穀価がその労働価格における変動によって下落するならば、啻に資本の利潤率が変動するのみならず、資本家の境遇も改善されるであろう。より[#「より」に傍点]大なる利潤を得ながら彼は、それらの利潤をそれに費す目的物に対して、より[#「より」に傍点]多くを支払わねばならぬことはないであろうが、このことは、吾々が今見たように、下落が奨励金によって人為的に惹起された時には起らないのである。人間の消費の最も重要な目的物の一つを生産するにより[#「より」に傍点]少い労働が必要とされることから生ずる貨物の価値の真実の下落においては、労働はより[#「より」に傍点]生産的たらしめられている。同一の資本をもって同一の労働が雇傭され、そして諸生産物の増加がその結果である。かくて啻に利潤率が増加されるのみならず、それを取得する者の境遇も改善されるであろう。啻に各資本家がたとえ同一の貨幣資本を用いても、より[#「より」に傍点]大なる貨幣収入を得るのみならず、更に、その貨幣が支出される時には、それは彼により[#「より」に傍点]多額の貨物を齎し、彼れの享楽品は増大されるであろう。奨励金の場合には、彼が一貨物の下落によって得る利益を相殺すべく、ある他の貨物に対してそれに比例する以上の価格を支払うという不利益を有っている。彼は、このより[#「より」に傍点]高い価格を支払い得んがために、騰貴せる利潤率を得るのである。従って、彼れの真実の境遇は、たとえ悪化しないとしても、決して改善されない。彼はより[#「より」に傍点]高い利潤率を得るけれども、彼は国の土地及び労働の生産物のより[#「より」に傍点]多量を支配し得ない。穀物の価値の下落が自然的原因によって齎される時には、それは他の貨物の騰貴によって相殺されないが、これに反して、それはその製造に入り込む粗生原料品が下落するから下落するのである。しかし穀物の下落が人為的手段によって惹起される時には、それは常に何らかの他の貨物の価値の真実の騰貴によって相殺され、従ってもし穀物がより[#「より」に傍点]低廉に買われるならば、他の貨物はより[#「より」に傍点]高価に買われるのである。
かくてこのことは、必要品に対する租税は労賃を高め利潤率を低める故にそれによっては何ら特別の不利益が生じないことの、もう一つの証拠である。もちろん利潤は下落するが、しかしそれは単に労働者の租税分担額に等しいのみであり、この租税負担額はとにかく、彼れの雇傭者か、または労働者の仕事の生産物の消費者かによって、支払われなければならないのである。雇傭者の収入から年々五〇|磅《ポンド》が控除されようと、または彼が消費する貨物の価格が五〇|磅《ポンド》高められようと、それは彼または社会に対し、すべての他の階級に平等に影響すべき影響以外のいかなる影響をも及ぼし得ない。もしその貨物の価格がそれだけ高められるならば、吝嗇家は消費しないことによって租税を避け得よう。もしそれだけが間接にあらゆる者の収入から控除されるならば、彼れは公《おおや》けの負担に対するその正当な分前を支払うことを避け得ないのである。
かくて穀物の生産奨励金は、穀物を相対的に低廉にし製造品を相対的に高価にするとはいえ、国の土地及び労働の年々の生産物には何ら真実の影響を及ぼさないであろう。
(一一三)しかし今、反対の方策が採られ、貨物の生産奨励金に対する資金を供給する目的をもって、穀物から租税が徴収されたと仮定しよう。
かかる場合においては、穀物が高価となり諸貨物が低廉となるべきことは明かである。もしも労働者が穀物の高価なることによって損害を受けるだけを諸貨物の廉価なることによって利得するならば、労働は引続き同一価格にあるであろうが、しかしもし彼がそうならないならば、労賃は騰貴して利潤は下落し、他方貨幣地代は引続き以前と同一であろう。利潤が下落するのは、吾々が今説明したように、この下落によって労働者の租税分担額が労働の雇傭者によって支払われるのであるからである。労賃の騰貴によって、労働者は穀物の騰貴せる価格という形で支払う所の租税に対して補償されるであろう。彼れの労賃を製造貨物には少しも支出しないことによって、彼は奨励金を少しも受取らないであろう。奨励金はすべて雇傭者によって受取られ、また租税は一部分被傭者によって支払われるであろう。労働者には、彼らに課せられたこの増加に対して、労賃の形において、補償がなされ、かくして利潤率は下落するであろう。この場合にもまた、国民的影響は何ら齎さない所の複雑な方策があるわけであろう。
この問題を考慮するに当って、吾々は故意に、外国貿易に対するかかる方策の影響を吾々の考慮の外に置いた。吾々はむしろ他国と全く商業的関係を有たない島国の場合を仮定して来た。吾々は、穀物及び諸貨物に対する国の需要は同一であろうから、この奨励金がいかなる方向を取ろうとも、資本を一つの職業から他のそれに移そうとする誘惑はないであろうということを見た。しかし、もし外国貿易がありしかもその貿易が自由であるならば、それはもはや事実ではなくなるであろう。諸貨物と穀物との相対価値を変更することによって、その自然価格に極めて有力な影響を及ぼすことによって、吾々はその自然価格が下落する貨物の輸出に有力な刺戟を与え、またその自然価格が騰貴する貨物の輸入に等しい刺戟を与えていることになるであろう、かくして、かかる財政方策は全く職業の自然分配を変更し、その結果は実に外国の利益となるが、しかしかかる不合理な政策を採用する国の破滅となるであろう。
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第二十四章 土地の地代に関するアダム・スミスの学説
(一一四)アダム・スミスは曰く、『土地の生産物の中で、その通常価格がそれを市場に齎すに用いられなければならぬ資本並びにその通常利潤を償うに足る如き部分のみが、普通市場に齎され得る。もし通常価格がこれ以上であるならば、その剰余部分は当然に土地の地代に帰属するであろう。もしそれがこれ以上でないならば[#「もしそれがこれ以上でないならば」に傍点]、その貨物は市場に齎され得てもそれは地主に何らの地代をも与え得ない[#「その貨物は市場に齎され得てもそれは地主に何らの地代をも与え得ない」に傍点]。価格がそれ以上であるかないかは、需要に依存する。』
この章句は当然読者を導いて、この著者は地代の性質を誤解せず、そして彼は社会の必要がその耕作を要求する質の土地は、『その生産物の通常価格[#「その生産物の通常価格」に傍点]』に依存し『それが土地の耕作に用いられねばならぬ資本並びにその通常利潤を償うに足る[#「それが土地の耕作に用いられねばならぬ資本並びにその通常利潤を償うに足る」に傍点]』か否か[#「か否か」に傍点]、に依存することを知っていたに相違ない、と結論せしめるであろう。
しかし彼は、『土地の生産物中には、それに対する需要が常に、それを市場に齎すに足る程度よりもより[#「より」に傍点]大なる価格を生ぜしめるが如き大いさなければならぬある部分がある』という観念を採っており、そして彼は食物をもってかかる部分の一つと考えたのである。
彼は曰く、『土地は、ほとんどいかなる位置にあっても、食物を市場に齎すに必要なすべての労働を、この労働がかつて維持されたことのないほど最も豊かに維持するに足るよりも、より[#「より」に傍点]多量の食物を生産するものである。その剰余もまた常に、その労働を雇傭する資本並びにその利潤を償うに足るよりもより[#「より」に傍点]多い。従って常に若干のものが地主に対する地代として残るのである。』
しかしこれについて彼はいかなる証明を与えているか? ――次の主張以外にはない、すなわち『ノルウェイ及びスコットランドにおける最も不毛な沼地も家畜に対するある種類の牧草を生産するが、その牛乳及び繁殖は常に、啻に家畜を飼養するに必要なすべての労働を維持し、かつ農業者または牛群あるいは羊群の所有者に通常利潤を支払うのみならず、更に地主にあるわずかの地代を与えてなお余りがある。』さて私はこのことについて一つの疑《うたがい》を挟むことを許されるであろう。私は、今日でも最も未開のものから最も文明の進んだものに至るまでのあらゆる国において、土地に用いられた資本並びにその国の通常利潤を償うに足る価値を有つ生産物を産出し得ざるが如き質の土地があると信ずる。アメリカではこれが事実であることを吾々はすべて知っているが、しかもなお何人も、地代を左右する諸原理がアメリカとヨオロッパとで異っているとは主張しない。しかしもし英国が極めて耕作において進歩しているために、
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