金の結果として騰貴するものではない、ということになるであろう。
 しかし、海外よりの需要増加によって生じた穀価の一時的騰貴は、労働の貨幣価格には何らの影響をも及ぼさないであろう。穀物の騰貴は、以前にはもっぱら内国市場に向けられていた供給に対する競争によって齎される。利潤の騰貴により附加的資本は農業に用いられ、増加せる供給が得られることになる。
 しかしそれが得られるまでは、消費を供給に比例せしめるために価格騰貴が絶対的に必要であるが、この騰貴は労賃の騰貴により相殺されるであろう。穀物の騰貴はその稀少の結果であり、そして国内購買者の需要が減少される方法である。もし労賃が騰貴するならば、競争は増加し、そして穀価のより[#「より」に傍点]以上の騰貴が必要となるであろう。奨励金の結果についてのこの記述において、穀物の市場価格が窮極的に支配される所のその他の自然価格を騰貴せしむべきものは何も起らないと仮定して来た。けだし一定の生産物を確保するためには土地である附加的労働が必要とされるとは仮定されなかったからであり、そしてこれのみがその自然価格を騰貴せしめ得るのである。もし毛織布の自然価格が一ヤアル二〇シリングであるならば、外国の需要の著しい増加は、その価格を二五シリングまたはそれ以上騰貴せしめるかもしれないが、しかしその時に毛織物製造業者の得る利潤は、資本をその方向に惹き附けずにはおかぬであろう、そして需要は二倍、三倍、あるいは四倍となっても、結局供給は得られ、毛織布は二〇シリングというその自然価格に下落するであろう。かくて、穀物の供給にあっても、年々吾々が二〇万、三〇万または八〇万クヲタアを輸出しても、それは窮極的に異れる労働量が生産に必要とならざる限り決して変化しない所のその自然価格において、生産されるであろう。
(一〇五)おそらく、アダム・スミスの正当に著名な著作のいかなる部分においても、奨励金に関する章におけるほどその結論が反対を容れ得るものはない。第一に彼は穀物をもって輸出奨励金によってその生産の増加され得ない貨物であるとしている。彼は常に、それは実際に生産された分量にのみ影響を及ぼし、より[#「より」に傍点]以上の生産に対しては何らの刺戟でもないと想像している。彼は曰く、『豊作の年には、異常な輸出を惹起すことによって、それは必然的に内国市場における穀価を、当然下落すべき点以上に保っておく。不作の年には、奨励金はしばしば停止されるとはいえ、しかも豊作の年にそれが惹起す大なる輸出のために、しばしばある年の豊作が他の年の不作を救済するのを多かれ少かれ妨げなければならぬ。従って不作の年にも豊作の年にも、奨励金は穀物の貨幣価格を国内市場で奨励金がなければそうであったであろう点よりもいくらか高く引上げるという、傾向を有っている。』(註)
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(註)他の場所において彼は曰く、『奨励金によっていかなる外国市場の拡張が起り得ようとも、それは、あらゆる特定の年において、全然内国市場を犠牲にして行われるものでなければならぬ。けだし奨励金によって輸出されそして奨励金なくしては輸出されなかった穀物の全部は、その貨物の消費を増加しその価格を下落せしめるために内国市場に留まったであろうからである。穀物奨励金並びにあらゆる他の輸出奨励金は、国民に二つの異れる租税を課することを注意すべきである。第一に奨励金を支払うために国民が納付せざるを得ぬ租税であり、そして第二に内国市場におけるこの貨物の価格騰貴によって生じ、かつ国民全体が穀物の購買者である故に、この特定貨物において国民の全体が支払わなければならぬ所の租税である。従ってこの特定貨物にあっては、この第二の租税がこの二つの中《うち》遥かに最も重いものである。』『従って第一の租税の支払のために彼らが納付する五シリングごとに、彼らは第二の租税の支払のために六|磅《ポンド》四シリングを納付しなければならぬ。』『従って奨励金によって起る穀物の異常な輸出は啻にあらゆる特定の年において、それがちょうど外国の市場と消費を拡張するだけ、内国のそれを減少するのみならず、更に国の人口及び産業を制限することによって、その終局的傾向は内国市場の漸次的拡張を阻止し制限し、ひいては結局、穀物の全市場及び消費を増大するよりはむしろ減少せしめることである。』
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 アダム・スミスは、彼れの議論の正否が、『穀物の貨幣価格の』騰貴が、『その貨物を農業者にとりより[#「より」に傍点]有利ならしめることによって、必ずしもその生産を刺戟するものではない』かどうかという事実に、全然依存することを、十分に知っているように思われる。
 彼は曰く、『もし奨励金の結果が、穀物の真実価格を騰貴せしめ、または農業者をして、その等量をもって、より[#「より」に傍点]多数の労働者を、それが豊富なると適度なるとまたは不十分なるとを問わず、他の労働者がその近隣で普通維持されていると同様に、維持し得せしめることであるならば、このことは起り得よう、と私は答える。』
 もし労働者により穀物を除いては何物も消費されず、またもし彼が受取る分前がその生存が必要とする最低限であるならば、多少の根拠があるであろう――しかし、労働の貨幣労賃は時に全然騰貴せず、また穀物の貨幣価格の騰貴に比例しては決して騰貴するものではない、けだし穀物は、労働者の消費物の一重要部分であるとはいえ、しかし単にその一部分に過ぎないからである。もし彼れの労賃の半ばが穀物に費され、他の半ばが石鹸、蝋燭、薪炭、茶、砂糖、衣服等の何らの騰貴も起らないと仮定されている貨物に費されるならば、小麦が一ブッシェルにつき一六シリングの時に彼がその一ブッシェルの支払を受けるのは、価格が一ブッシェルにつき八シリングの時に二ブッシェルの支払を受けるのと全く同様であり、または貨幣で二四シリングの支払を受けるのは、以前に一六シリングの支払を受けるのと同様であることは、明かである。彼れの労賃は、たとえ穀物が一〇〇%だけ騰貴しても、単に五〇%だけ騰貴するに過ぎないであろう。従ってもし他の職業に対する利潤が引続き以前と同一であるならば、より[#「より」に傍点]多くの資本を土地に転向せしめる十分の動機があるであろう。しかしかかる労賃の騰貴はまた、製造業者を促してその資本を製造業から引去って土地に用いるに至らしめるであろう。けだし農業者はその貨物の価格をば一〇〇%だけ増加し、そしてその支払う労賃をば五〇%だけ増加せしめたに過ぎないのに、製造業者もまた労賃を五〇%だけ引上げざるを得ず、他方彼は生産費の増加に対し、その製造貨物の騰貴の形で何らの補償も受けず、従って資本は製造業から農業へ流入し、ついに供給が再び、穀価を一ブッシェルにつき八シリングに、労賃を一週につき一六シリングに下落せしめるであろうが、その時には製造業者は農業者と同一の利潤を得、そして資本の流れはいずれの方向へも向わなくなるであろう。これが事実上、穀物の耕作が常に拡張せられかつ市場の増加せる欲望が供給せられる仕方である。労働の維持のための基金は増加し、労賃は騰貴する。労働者の安楽な境遇は彼を促して結婚せしめる、――人口は増加し、穀物に対する需要はその価格を他の物に比して騰貴せしめる、――より[#「より」に傍点]多くの資本が農業に有利に用いられかつ引続きそれに流入し、ついに供給が需要に等しくなり、その時に価格は再び下落し、農業及び製造業の利潤は再び等しくなるのである。
 しかし穀価の騰貴後に、労賃が静止的であったか、適度に増進したか、または著しく増進したかは、この問題にとり何ら重要ではない、けだし労賃は農業者と同様に製造業者によっても支払われ、従ってこの点において両者は穀価の騰貴によって等しい影響を受けるに違いないからである。しかし製造業者はその貨物を以前と同一の価格で売るのに、農業者はその貨物を騰貴せる価格で売る故に、彼らはその利潤においては不平等に影響を蒙る。しかしながら、常に資本を一つの用途から他の用途に移動せしめる誘因たるものは、利潤の不平等である。従って穀物の生産は増加し、貨物の製造は減少するであろう。諸製造品は騰貴しないであろうが、けだしその一供給が輸出穀物と引換えに得られるためにその製造が減少するからである。
 奨励金は、もし穀価を騰貴せしめるならば、それを他の貨物の価格と比較して騰貴せしめるか、あるいはしからざるかである。もしこの肯定が真実であるならば、穀価が豊富な供給によって再び下落するまでは、農業者のより[#「より」に傍点]大なる利潤及び資本の移動に対する誘引を否定することは不可能である。もしそれが他の貨物に比較してそれを騰貴せしめないならば、租税支払という不便の以上に、内国消費者に対する害がどこにあるか? もしも製造業者がその穀物により[#「より」に傍点]大なる価格を支払うならば、彼は、彼れの穀物がそれで窮極的に購買される所の自分の貨物をそれで売るそのより[#「より」に傍点]大なる価格によって、償われるであろう。
(一〇六)アダム・スミスの誤謬は、まさに、エディンバラ評論における論者のそれと同一の源泉から発している。けだしこの両者は、『穀物の貨幣価格がすべての他の国産貨物のそれを左右する』と考えているからである(註)。アダム・スミスは曰く、『それは労働の貨幣価格を左右する、そしてこの貨幣価格は常に、労働者をして、彼とその家族を、豊富にか適度にかまたはまたは乏しく、――社会の進歩的、停止的、または退歩的な諸事情のために彼れの雇傭者は彼をかように維持せざるを得ないのであるが、――維持するに足る分量の穀物を購買し得せしめるが如きものでなければならない。土地の粗生生産物の他のすべての部分の貨幣価格を左右することによって、それはほとんどすべての製造品の原料の貨幣価格を左右する。労働の貨幣価格を左右することによって、それは製造業技術と労働との貨幣価格を左右する。そして両者を左右することによって、それは完成製造品の貨幣価格を左右する。労働と[#「労働と」に傍点]、土地か労働かの生産物たるあらゆる物との貨幣価格は[#「土地か労働かの生産物たるあらゆる物との貨幣価格は」に傍点]、必然的に[#「必然的に」に傍点]、穀物の貨幣価格に比例して騰落しなければならない[#「穀物の貨幣価格に比例して騰落しなければならない」に傍点]。』
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(註)同一の意見をセイ氏は主張している。第二巻、三三五頁。
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 このアダム・スミスの意見を、私は前に反駁せんと企てた。貨物の価格の騰貴を穀価の騰貴の必然的結果と考えることにおいて、彼はあたかも、この増加せる費用を支払い得べき他の基金は存在しないが如くに考えている。利潤の減少は、貨物の価格を騰貴せしめることなくして、この基金を形造るのであるが、彼はこの利潤の考察を全然しなかった。もしこのスミス博士の意見が十分の根拠を有っているならば、利潤は、いかなる資本蓄積が起ろうとも決して真実には下落し得ないであろう。もし労賃が騰貴した時に、農業者がその穀価を引上げ得、かつ毛織物製造業者、帽子製造業者、靴製造業者、その他あらゆる製造業者もまた労賃の騰貴に比例してその財貨の価格を引上げ得るならば、貨幣で測ればすべて騰貴していようけれども、それは相互に相対的に引続き同一の価値を保有するであろう。これらの職業の各々は、以前の同一量の他のものの財貨を支配し得るであろうが、富を構成するものは財貨であり貨幣ではないのであるから、このことが彼らにとり重要なものたり得る唯一の事情である。そして粗生生産物及び財貨の価格の全騰貴は、その財産が金及び銀より成るか、またはその年々の所得が、地金の形においてであろうと貨幣の形においてであろうとかかる金属の確定量で支払われる人々を除く、他のいかなる人々にも有害ではないであろう。貨幣の使用が全然廃止され、すべての取引が
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