る享楽品に向うであろう。もし彼が一〇、〇〇〇|磅《ポンド》を生産的に用いるならば、その有効需要は、新しい労働者を働かしむべき食物、衣服、及び粗生原料品に向うであろうが、しかしそれも依然として需要である(註二)。
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(註一)次の語はセイ氏の原理と全く一致するであろうか? ――『自由にし得る資本が、それに対する用途の範囲に比較して豊富であればあるほど、資本の貸付に対する利子率は下落するであろう。』――第二巻、一〇八頁。もし資本がいかなる範囲にまでも一国によって用いられ得るならば、それに対する用途の範囲に比較してそれが豊富であるとは、どうして言われ得よう?
(註二)アダム・スミスは曰く、『ある特定産業部門の生産物が、その国の需要が必要とする所を超過するならば、剰余は海外に送られ、国内において需要のある何らかの物と交換されなければならない。かかる輸出なくしては[#「かかる輸出なくしては」に傍点]、その国の生産的労働の一部分は停止しなければならず[#「その国の生産的労働の一部分は停止しなければならず」に傍点]、そしてその年々の生産物の価値は減少しなければならない[#「そしてその年々の生産物の価値は減少しなければならない」に傍点]。大英国の土地及び労働は、内国市場の需要が必要とする以上穀物や羊毛や鉄器を一般に生産する。従ってそれらの物の剰余部分は海外に送られ、そして国内において需要のある所の何らかの物と交換されなければならない。この剰余が、それを生産する労働と費用とを償うに足る価値を獲得し得るのは、かかる輸出の手段によってのみである。』人は上記の章句からして、アダム・スミスは、吾々は穀物や羊毛品や鉄器の剰余を生産しなければならぬのであり、そしてそれを生産する資本はそれ以外には用いられ得ないと結論したものと、考えるに至るかもしれない。しかしながら、資本がいかに使用されるかは常に選択の問題であり、従って、長い間に亘っては、ある貨物の剰余は決してあり得ない。けだしもしそれがあるならば、それはその自然価格以下に下落し、そして資本はより[#「より」に傍点]有利な職業に移転されるからである。生産された財貨が、その価格によってはその生産費と市場への運送費との全部――通常利潤を含む――を償わない所の職業から、移転せんとする資本の傾向を、スミス博士よりもより[#「より」に傍点]十分にかつ見事に説明した論者はない。第一篇、第十五章を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
 生産物は常に生産物または勤労によって購買され、貨幣は単に交換が行われる媒介物に過ぎない。ある特定貨物が余りに生産され過ぎて、それに投ぜられた資本を償い得ないようなその供給過剰が市場に起り得よう。しかしすべての貨物に関してはかかることは起り得ない。穀物に対する需要はそれを食うべき口の数によって限定され、靴や上衣に対する需要はそれを着用する人の数によって限定される。しかし社会がまたは社会の一部分が、自ら消費し得または自ら消費せんと欲する程度の穀物量及び帽子や靴の数を有つことは有り得ても、自然または人為によって生産されるあらゆる貨物については同一のことは言い得ない。ある人々はもし葡萄酒を手に入れる資力があるならばそれをより[#「より」に傍点]多く消費するであろう。十分の葡萄酒を有っている他の人々は、その什器の分量を増加しまたはその品質を改善せんことを希望するであろう。他の人々は、その土地を飾り、またはその家屋を大きくしようと希望するであろう。これらのことの全部または一部をなしたいとの願望はあらゆる人の胸に植え付けられている。必要とされているのはその能力のみであり、そして生産の増加以外にはこの能力を与え得ない。もし私が自由に処分し得る食物及び必要品を有っているならば、私はまもなく、私に最も有用なまたは最も望ましい物の若干を所有せしめる労働者を手に入れることであろう。
 かかる生産物の増加及びこれに伴って惹起される需要が利潤を下落せしめるか否かは、もっぱら労賃の騰貴に依存する。そして労賃の騰貴はある限られた期間を除けば、労働者の食物その他の必要品を生産する難易に依存する。私はある限られた期間を除けばと言うが、それはけだし、労働者の供給は、常に終局的には、彼らを支持する手段に比例するということよりもより[#「より」に傍点]十分に樹立された点はないからである。
 食物の価格が低い場合の資本の蓄積が利潤の下落を伴い得る唯一の場合があるが、それは一時的であろう。そしてそれは労働の維持のための基金が人口よりも極めてより[#「より」に傍点]速かに増加する場合である。――その時には労賃は高く利潤は低いであろう。もしあらゆる人が奢侈品の使用を止め、蓄積のみを心がけるならば、直接的消費物たり得ない多量の必要品が生産されるであろう。数において極めて限定されている貨物についてすら疑いもなく普遍的供給過剰が起り得、従ってかかる貨物の追加量に対する需要も有り得ず、またより[#「より」に傍点]以上の資本の使用に対する利潤も有り得ないであろう。もし人々が消費することを止めるとすれば、彼らは生産することを止めるであろう。このことの承認は一般的原理を疑うゆえんではない。例えば英国の如き国においては、国の全資本及び労働を必要品のみの生産に向けようとする志向が起り得ると想像することは困難である。
(一〇一)商人がその資本を外国貿易や運送業に用いるのは、常に選択の結果であって、止むを得ずなすのではない。すなわち、それは彼らの利潤が、内国商業よりもこの事業の方が幾分多いからである。
 アダム・スミスは正当にも曰く、『食物に対する欲望は、あらゆる人間において、人類の胃の狭い受容力によって限定されているが、しかし建物や衣服や馬車や家具の如き便利品及び装飾品に対する欲望は、限度または一定の境界を有たないように思われる。』かくて自然はいかなる時にも農業に有利に用いられ得る資本額を必然的に限定したが、しかしそれは生活の『便利品及び装飾品』を獲得する上に用いられ得る資本額には、何らの制限も置かなかったのである。これらの満足を最も豊富に得ることが当面の目的であり、そして人々が、必要とする貨物やその代用品を国内において製造せずして外国貿易や運送業に従事するのは、それがこの目的をより[#「より」に傍点]よく成就するからである。しかしながら、もし特殊な事情によって、資本を外国貿易や運送業に用いることを阻まれるならば、吾々は、その利益は減少しても、その資本を国内で用いるであろう。そして『建物や衣服や馬車や家具の如き便利品、装飾品』に対する欲望に何らの限度もない間は、それを生産すべき労働者を維持すべき吾々の力を束縛するものを除けば、その獲得に用いらるべき資本には何らの限界も有り得ないのである。
 しかしながら、アダム・スミスは、運送業を論じて選択的のものではなく止むを得ないものであるとし、あたかもそれに用いられている資本は、それに用いられない場合には、無能力になるかの如くに、あたかも内国商業における資本は、量を限定されない場合には、流出し得るかの如くに、論じている。彼は曰く、『ある国の資本貯財が、特定国の消費額の供給に及び生産労働の支持にそれがすべて使用し尽されない[#「特定国の消費額の供給に及び生産労働の支持にそれがすべて使用し尽されない」に傍点]ほどに増加される時は、その剰余部分は当然に運送業に注ぎ込まれ、そして同じ任務を他の国々に対して果《はた》すに用いられる。』
『約九万六千ホグスヘッドの煙草《たばこ》が、年々英国産業の剰余生産物の一部分で購買される。しかし大英国の需要はおそらく一万四千ホグスヘッド以上を必要としない。従ってもし残りの八万二千ホグスヘッドが、海外に送り出されて国内においてより需要のあるある物と交換され[#「国内においてより需要のあるある物と交換され」に傍点]得ないならば、その輸入は直ちに止み、そしてそれと共に[#「そしてそれと共に」に傍点]、この八万二千ホグスヘッドの煙草を年々購買すべき財貨の製造に現在用いられている大英国のすべての住民の生産的労働は止むであろう[#「この八万二千ホグスヘッドの煙草を年々購買すべき財貨の製造に現在用いられている大英国のすべての住民の生産的労働は止むであろう」に傍点]。』しかし大英国の生産的労働のこの部分は、国内においてより[#「より」に傍点]需要のあるある物を購買すべき何らかの他の種類の財貨の生産に用いられ得ないであろうか? そしてもしそれがなし得ないならば、吾々はその利益は減少するが、この生産労働を、国内において需要がある財貨の製造に、または少くともその何らかの代用品の製造に、用い得ないであろうか? もし吾々が天鵞絨《ビロード》を欲するならば、吾々は天鵞絨《ビロード》の製造を企て得ないであろうか、そしてもし吾々がそれをなし得ないならば、吾々は、より[#「より」に傍点]多くの毛織布、または吾々に望ましい何らかの他の物を製造し得ないであろうか?
 吾々は貨物を製造しそれをもって外国で財貨を購買するが、それは国内で造り得るよりもより[#「より」に傍点]多量を取得し得るからである。吾々がこの貿易を奪われるならば、吾々は直ちに再び自らのために製造する。しかしこのアダム・スミスの意見は、この問題に関する彼れのすべての一般学説とは異っている。『もし一外国が一貨物を吾々に、吾々自身が造り得るよりもより[#「より」に傍点]低廉に供給し得るならば、吾々がある利益を得るような方法で用いられている吾々の勤労の生産物のある部分をもって、その国からそれを購買するに如《し》かず。一国の一般的勤労は常に[#「一国の一般的勤労は常に」に傍点]、それを雇傭する資本に比例するから[#「それを雇傭する資本に比例するから」に傍点]、かかることによっては減少されず、ただ最も有利に使用され得る方法を見出すに委ねられるであろう。』
 また曰く、『従って自ら消費し得る以上の食物を支配する得る者は、常に、その剰余または同じことであるがその価格を、喜んで他の種類の欲望充足品と交換せんとしている。限定された欲望を充たした以上の余分は、到底充足され得ずかつ全く無限であるように思われる欲望の娯楽のために与えられる。貧民は食物を得んがために、富者のかかる嗜好を充すべく努力し、しかもそれをより[#「より」に傍点]確実に取得せんがために、彼らは互にその仕事の低廉と完全において競うのである。労働者の数は、食物量の増加すなわち土地の改良及び耕作の発展と共に増加する。そして彼らの業務の性質は極度の分業を許すから、彼らが仕上げ得る原料の分量は彼らの数以上の比例で増加する。従って人間の発明によって有用的にかまたは装飾的に建物や衣服や馬車や家具に用い得る所のあらゆる種類の原料に対する需要が起り、土殻中に包蔵される化石や鉱石、貴金属及び宝石に対する需要が起るのである。』
 かくてこれらの事柄を承認すれば、需要には限度がなく、――資本が何らかの利潤を生み出している間は、資本の使用には限度がなく――かつ資本がいかに豊富になっても、労賃の騰貴の他には利潤の下落に対する相当の理由はない、ということになり、更に、労賃騰貴の唯一の適当かつ永続的な原因は、増加しつつある労働者数に対して食物及び必要品を支給する困難の逓増であると、附加し得よう。
(一〇二)アダム・スミスは正当に、資本の利潤率を決定することは極めて困難であると述べた。『利潤は非常に変動しつつあり、ために、一職業においてさえ、また諸職業一般においてはなおいっそう、その平均率を述べることは困難であろう。それが以前に、または遠く隔った時期に、どれほどであったかを、少しでも正確に判断することは、全く不可能でなければならぬ。』しかも、貨幣の使用によって多くの収得が得られる時には、それに対して多くのものが与えられるべきことは明かであるから、彼は曰く、『市場利子率は吾々を導いて利潤率に関するある観
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