種々なる貨物の価値を左右するものは、『絶えず生産費と生産されたものの価値とを比較することに従事している所の、』(四、を見よ)生産者の競争である。かくてもし私が一塊のパンに対して一シリングを、一ギニイに対して二一シリングを与えても、それは、これが私の評価におけるこれらのものの効用の比較的尺度である、ということを証明するものではない。
第四においてセイ氏は、私が価値に関して主張した学説をほとんど何らの変更もなく主張している。彼はそのいわゆる生産的勤労の中に、土地、資本、及び労働によって与えられた勤労を包含せしめているが、私のそれの中には、私は単に資本及び労働のみを包含せしめ、土地は全然除外している。吾々の差異は、地代に関する吾々の見解の異る所から起るのである。私は常に地代は部分的独占の結果であり、決して真実に価格を左右せず、むしろその結果であると考えている。たとえすべての地主が地代を抛棄しても、私は、土地において生産される貨物は低廉にはならないであろうという意見である、けだし、剰余生産物が資本の利潤を支払うに足るに過ぎないために、それに対し何らの地代も支払われずまたは支払われ得ない所の、土地において生産される同一貨物の一部分が、常にあるからである。
結論を下せば、貨物の真実の豊富と低廉によってすべての消費者階級に生ずる利益を高く評価せんとすることは、私はあえて人後に落ちるものではないけれども、私は、一貨物の価値を、それと交換される他の諸貨物の分量によって評価することには、セイ氏に同意することは出来ない。私は、極めて著名な学者、デステュト・ドゥ・トラアシイと同意見であるが、彼は曰く、『ある一物を測るということは、吾々が比較の標準として、単位として、採用する所の同一物の確定量と、それを比較することである。一つの長さ、一つの重さ、一つの価値を測るということ、すなわちそれを確かめるということは、これらのものが、メートル、グラム、フラン、一言もって云えば同一種類の単位を、幾倍含んでいるかを発見することである。』フランと測らるべき物とが、双方に共通なある他の尺度に還元され得ざる限り、フランは単にそれでフラン貨幣が造られている同一金属の一分量に対する尺度である他は、何物に対しても価値の尺度ではない。このことはなされ得ると私は思うが、けだしこれらは共に労働の結果であるからであり、従って労働は、それによってその相対価値と同様にその真実価値が評価され得る共通の尺度である。これもまた、幸にしてデステュト・ドゥ・トラアシイ氏の意見のように思われる(註)。彼は曰く、『吾々の肉体的精神的能力のみが吾々の本来的富であることは確実であるから、それらの能力の使用すなわちある種の労働が、吾々の唯一の本来的宝であり、そして吾々が富と呼ぶすべての物、すなわち最も必要なもの並びに最も純粋に快適なものが創造されるのは常にこの物の使用によってである。すべてのそれらの物のみがそれを創造した労働を代表するものであり、かつもしそれが一つの価値、または二つの別箇の価値をさえ有つならば、それらの物は、それが生ずる源たる労働の価値から得られ得るのみであるということもまた、確実である。』
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(註)『観念学要論』、第四巻、九九頁――この書物において、ドゥ・トラアシイ氏は、経済学の一般原理に関する有用にしてかつ優れた論述をなしている、そして私は、彼が、彼れの権威をもって、『価値』、『富』及び『効用』なる言葉につきセイ氏が与えた定義を支持していることを、附記せざるを得ないのを、遺憾とするものである。
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セイ氏は、アダム・スミスの大著の長所及び短所を論ずるに当って、『彼が人間の労働のみに、価値を生産する力を帰している』ことを、誤謬であるとして彼を非難している。『より[#「より」に傍点]正しい分析によれば、価値が、労働の活動またはむしろ人間の勤労と、並びに自然が提供する諸要素の活動及び資本の活動に、よるものなることが、吾々にわかる。彼はこの原理を知らなかったために、彼は富の生産における機械の影響に関する真の理論を樹立し得なかったのである。』
アダム・スミスの意見とは反対に、セイ氏は第四章において、時に人間の労働に代位されまた時には生産において人間と協力する所の、太陽、空気、気圧の如き、自然的要素によって貨物に与えられる価値について論じている(註)。しかしこれらの自然的要素は、貨物の使用価値[#「使用価値」に傍点]を増加することは大であるとはいえ、いまセイ氏が論じつつある交換価値を決して増加せしめるものではない。機械の助力によりまたは自然科学の知識により、自然的要素をして以前に人間がなしていた仕事をなさしめるに至るや否や、かかる製品の交換価値はそれに従って下落する。もし十名の人が磨穀器を廻していたとし、そして風か水の助力によってこの十名の人間の労働が節約され得ることが見出されたならば、一部分磨穀器によってなされる仕事の生産物たる麦粉の価値は、節約された労働量に比例して直ちに下落するであろう。そしてこの十名の維持に向けられた基金は毫も害されていないから、社会は彼らの労働が生産し得べき貨物だけより[#「より」に傍点]富むこととなるであろう。セイ氏は常に、使用価値と交換価値との間にある本質的差異を看過しているのである。
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(註)『金属を火によって熔解する方法を知った最初の人は、この過程によって、熔解された金属に附加される価値の創造者ではない。その価値は、この知識を利用した人々の資本及び勤労に附加せられた火の物理的作用の結果である。』
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『この誤謬よりしてスミスは、すべての生産物の価値は、近時または往時の労働を代表する、または換言すれば[#「または換言すれば」に傍点]、富は蓄積された労働に他ならない[#「富は蓄積された労働に他ならない」に傍点]、という誤った結論を引出したが、このことからして[#「このことからして」に傍点]、同様に誤った第二の推論によって[#「同様に誤った第二の推論によって」に傍点]、労働は富または生産物の価値の唯一の尺度である[#「労働は富または生産物の価値の唯一の尺度である」に傍点]、という結論を引出している。』セイ氏が結論としたこの推論は、彼自身のものであってスミス博士のものではない。もし価値と富との間に何らの区別もなされないのであるならば、これは正しい、そしてセイ氏はこの章句において何らの区別もしていないのである。しかし富をもって、生活の必要品、便利品、及び享楽品の豊富より成ると定義したアダム・スミスは、機械及び自然的要素が一国の富を極めて増加せしめることを認めたとはいえ、彼は、それがかかる富の価値を幾らかでも増加せしめるということは、認めはしなかったであろう。
セイ氏は、すべての物の価値は人間の労働から得られると考えたために自然的要素及び機械によって貨物に与えられる価値を看過したといって、スミス博士を非難している。しかしこの非難が当っているとは思われない。けだしアダム・スミスはどこにおいてもこれらの自然的要素及び機械が吾々のためになす奉仕を過小評価してはおらず、ただ極めて正当に、それが貨物に附加する価値の性質を明かに区別しているのであるからである、――それは、生産物の分量を増加し、人間をより[#「より」に傍点]富ましめ、使用価値を附加することによって、吾々に役立つ。しかし、それはその仕事を無償でなすから、空気や熱や水の使用に対しては何物も支払われないから、それが吾々に与える助力は交換価値には何物をも附加しないのである。
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第二十一章 利潤及び利子に及ぼす蓄積の影響
(九九)資本の利潤について与えられ来った説明からすれば、労賃の騰貴に対するある永続的原因がない限り、資本の蓄積は決して永続的に利潤を下落せしめないことが分るであろう。もし労働の維持のための基金が二倍、三倍、または四倍になっても、この基金によって雇傭さるべき必要な人数を得る困難は長くはないであろう。しかし国の食物を絶えず増加して行く困難が逓増して行くために、同一の価値を有つ基金はおそらく同一量の労働を維持しないであろう。もし労働者の必要品が常に同じく容易に増加され得るならば、資本がいかなる額まで蓄積されようとも、利潤率または労賃率には何らの永続的変動も起り得ないであろう。しかしながらアダム・スミスは、利潤下落の原因を一様に資本の蓄積及びその結果として起る競争に帰し、附加資本が用うべき労働者の附加数に対して食物を供給する困難が逓増することについて論及したことはかつてない。彼は曰く、『労賃を騰貴せしめる資本の増加は利潤を下落せしめる傾向がある。多くの富裕な商人の資本が同一の事業に向けられるときは、彼らの相互の競争は当然その利潤を下落せしめる傾向がある。そして同一の社会の中で営まれているすべての各様の事業において同様の資本の増加がある時には、同一の競争はそのすべての事業において同一の結果を生み出さなければならぬ。』アダム・スミスはここで労賃の騰貴について論じているが、しかしそれは、人口が増加する前に基金が増加することから起る所の一時的の騰貴についてである。そして彼は、資本によってなさるべき仕事が同一の比例で増加されることを、見ていないようである。しかしながらセイ氏は、需要は単に生産によって限定されているに過ぎないから、一国において用いられ得ない資本の額はないということを最も十分に説明したのである。
(一〇〇)消費または売却せんとする目的なくして生産するものはない。そして直接彼に有用でありまたは将来の生産に寄与し得るある他の貨物を購買せんとする意図なくしては、人は決して売却しない。しからば、彼は、生産することによって、必然的に、彼自身の財貨の消費者となるか、またはある他人の財貨を、購買し消費するものとなるかである。他の財貨を所有するという彼れの目的を達するために、彼が最も有利に生産し得る貨物について、長い間十分の知識を有っていないということは、想像し得ない。従ってそれに対して需要の無い貨物を彼が引続き生産することはおそらくないであろう(註)。
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(註)アダム・スミスはオランダを論じて、資本の蓄積とその結果あらゆる資本を有ち過ぎることによる利潤下落の一例を与えるものとしている。『そこでは政府は二%で借り、信用多き私人は三%で借りる。』しかしオランダは、それが消費するほとんどすべての穀物を輸入せざるを得ず、そして労働者の必要品に重税を課することによってこの国は労働の労賃を更に騰貴せしめた、ということを記憶しなければならない。かかる事実は、オランダにおける利潤率の低いことを十分に説明するであろう。
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しからば、必要品騰貴の結果として、蓄積に対する動機がなくなるほど労働が騰貴し従って資本の利潤が極めてわずかしか残らないようになるまでは、生産的に使用され得ないほどの資本額が一国において蓄積されることは有り得ない(註一)。資本の利潤が高い間は、人は蓄積せんとする動機を有つであろう。人が満足されぬ熱望を有つ間は、彼はより[#「より」に傍点]多くの貨物に対して需要を有つであろう、そして彼がそれと引換に提供すべき何らかの新しい価値を有っている間は、それは有効需要であろう。もし年々一〇〇、〇〇〇|磅《ポンド》を得ている人に一〇、〇〇〇|磅《ポンド》が与えられるならば、それを金庫に蔵《しま》わずに、彼は、一〇、〇〇〇|磅《ポンド》だけその支出を増加するか、それを自分自身で生産的に用いるか、または同じ目的のためにそれを他人に貸付けるであろう。そのいずれの場合においても、需要は異る物に向けられるけれども、需要は増加するであろう。もし彼が支出を増加するならば、その有効需要はおそらく、建物、什器、またはこれに類す
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