り[#「より」に傍点]貧しくなり、そして水の所有者は彼らの損失の額だけ利益するのである。全社会は同一量の水と同一量の諸貨物とを得ているが、しかしそれらの物の分配は変っているのである。しかしながら、これは水の稀少よりはむしろその独占を仮定しているのである。もしそれが稀少であるならば、その国及び個々人は、その一享楽品の一部分を奪われるから、その富は実際減少するであろう。農業者は、啻に彼に取って必要または望ましい他の貨物に対して交換すべき穀物を有つことより[#「より」に傍点]少いのみならず、更に彼及び他のあらゆる個々人はその愉楽品中の最も欠くべからざるものの一つの享楽を削減されるであろう。啻に富の分配が異るに至るのみならず、また富が実際に失われるであろう。
しからば、すべての生活の必要品及び愉楽品の正しく同一量を所有する二国については、この二国は等しく富んでいると云い得ようが、しかしその各々の富の価値は、その生産の比較的難易によって定まるであろう。けだしもし一箇の改良された機械が、吾々をして労働を追加することなくして、一足ではなく二足の靴下を製造し得せしめるならば、一ヤアルの毛織布と交換して、二倍の分量が与えられるであろうからである。もし同様の改良が毛織布の製造においても行われるならば、靴下と毛織布とは以前と同一の比例で交換されるが、しかしこれら両者は価値において下落しているであろう。けだしこれを帽子や金やその他の一般貨物と交換するに当っては、以前の二倍量が与えられなければならぬからである。金その他のすべての貨物の生産にも改良を及ぼすならば、これらのものはすべてその以前の比例に復するであろう。二倍量の貨物が年々この国において生産されており、従って国の富は二倍となるであろうが、しかしこの富の価値は増加していないであろう。
アダム・スミスは、私が一再ならず指摘した富の正しい説明を与えたにもかかわらず、彼は後にこれを異って説明し、次の如く言っている、『人は、彼が購買し得る労働量に応じて、富みまたは貧しくなければならぬ。』さてこの説明は前のものと本質的に異り、そして確かに正しくない。けだし、鉱山がより[#「より」に傍点]生産的になり、ために金や銀がその生産の便宜の増大によって価値が下落すると仮定するならば、または天鵞絨《ビロード》が以前よりも遥かにより[#「より」に傍点]少い労働をもって製造されるに至り、ためにそれがその以前の価値の半分に下落すると仮定するならば、これらの貨物を購買したすべての者の富は増加されるからである。ある人は彼の皿の分量を増加し、他の人は二倍の分量の天鵞絨《ビロード》を購買するであろう。しかし、この附加せられた皿や天鵞絨《ビロード》を得ても、彼らは以前と同一の労働しか用い得ないであろう。けだし天鵞絨《ビロード》や皿の交換価値が下落するにつれて、彼らは一日の労働を購買するためにこの種の富をそれに比例してより[#「より」に傍点]多く手離さなければならぬからである。富はかくて、それが購買し得る労働量によっては測定され得ないのである。
(九七)前述せる所からして、一国の富は二つの方法で増加され得べきことが分るであろう。すなわちそれは、より[#「より」に傍点]大なる部分の収入を生産的労働の維持に用いることによって増加され得よう、――これは、啻に貨物の総体の量を増加するのみならず、更にその価値をも増加するであろう。もしくはそれは、附加的労働量を用いることなしに同一量をより[#「より」に傍点]生産的ならしめることによって増加され得よう、――これは貨物の量を増加するであろうが、その価値は増加しないであろう。
第一の場合においては、一国は、啻に富んで来るのみならず、更にその富の価値も増加するであろう。それは節倹により、すなわち奢侈や享楽の対象物に対するその支出を減少することにより、そしてこれらの貯蓄を再生産に用いることにより、富んで来るであろう。
第二の場合においては、必ずしも、奢侈品及び享楽品に対する支出の減少も、用いられる生産的労働量の増加もなく、同一の労働をもってより[#「より」に傍点]多くのものが生産されるであろう。富は増加するが価値は増加しないであろう。富を増加せしめるこれら二つの方法の中《うち》、後者は、第一の方法には必ず伴わざるを得ない享楽品の欠乏及び減少なしに同一の結果を挙げる故に、それを選ばなければならぬ。資本とは、一国の富の中《うち》、将来の生産を目的として用いられる部分であり、そして富と同一の方法で増加せられ得る。附加的資本とは、それが技術及び機械の改良によって得られようとも、またはより[#「より」に傍点]多くの収入を再生産的に用いることによって得られようとも、将来の富の生産には等しく有効であろう。富は常に生産された貨物の分量に依存し、生産に使用される器具を獲得することの難易とは何らの関係も有たないからである。一定量の衣服及び食料品は、それが一〇〇名の労働によって生産されたのであろうと二〇〇名のそれによって生産されたものであろうとに論なく、常に同数の人間を維持し雇傭し、従って同一量の仕事をなさしめるであろう。しかしそれらの物は、もしその生産に二〇〇名が用いられたのであるならば、二倍の価値を有つであろう。
(九八)セイ氏は、彼れの著『経済学』の第四版すなわち最近の版において訂正をなしたにもかかわらず、富と価値とに関するその定義は極めて誤っているように私には思われる。彼はこれら二つの語は同義であり、そして人は彼れの所有物の価値を増加し、多量の貨物を支配し得るに至るにつれて、富むと考えている。彼は曰く、『しからば所得の価値はもしそれが生産物のより[#「より」に傍点]大なる分量を――いかなる方法によろうとそれは重要ではないが――獲得し得るならば、その時に増加される。』セイ氏によれば、もし毛織布を生産する困難が二倍となり、その結果毛織布はそれと以前に交換された貨物の二倍量と交換されるに至るならば、その価値は二倍となるのである。これに対して私は全然同意する。しかし、もし諸貨物の生産にある特別な便宜があり、そして毛織布の生産は何らの困難の増加もなく、従って毛織布は前と同様に、二倍量の諸貨物と交換されるに至るならば、セイ氏は依然毛織布の価値は二倍となったというであろうが、しかるにこの問題に対する私の見解によれば、彼は、毛織布はその以前の価値を保ち、それらの特定の貨物が以前の価値の半分に下落したというべきである。セイ氏が、生産の便宜により、以前に一袋の穀物を生産したと同一の手段によって二袋のそれが生産され、従って各袋は以前の価値の半分に下落するであろうといいながら、しかも彼が、二袋の穀物と毛織布を交換する毛織布製造業者は、彼がその毛織布と交換して単に一袋の穀物を得たに過ぎなかった時の二倍の価値を取得するであろう、と主張する時に、彼は自家撞着に陥っているのでなければならぬ。もし二袋が以前の一袋の価値を有つならば、彼は明かに同一の価値を取得するに過ぎない、――もちろん彼は富の二倍量――効用の二倍量――アダム・スミスのいわゆる使用価値の二倍量を得るのであるが、しかし価値の二倍量を得るのではない。従ってセイ氏が価値、富、及び効用を同義語と考えているのは正当であり得ない。もちろんセイ氏の著書には、価値及び富の本質的差異について私が主張している学説を支持するために、安んじて引用し得る多くの部分があるが、しかし反対の学説が主張されている色々な他の章句もあることを、云わなければならない。私はこれらの諸章句を調和せしめることが出来ない。さればセイ氏がその著作の将来の版で、これらの考察に注意されるが如き場合には、私と同じく他の多くの人々が、彼れの見解を解釈せんと努めるに当って感ずる困難を、一掃するが如き説明を与えられんがために、私はこれらの章句を互に対照せしめてこれを指摘しておく。
[#ここから一字下げ、折り返して二字下げ、ここから二段組]
一、二つの生産物の交換においては、吾々は単に事実上それらを創造するに役立った生産的勤労を交換しているに過ぎない。…………五〇四頁。
二、生産費から生ずるもの以外に真実の高価ということはない。真実に高価な物は、生産に多くを費されるものである。…………四九七頁。
三、一生産物を創造するために消費されなければならぬすべての生産的勤労の価値が、その生産物の生産費を構成する。…………五〇五頁。
四、一貨物に対する需要を決定するものは効用であるが、しかしその需要の範囲を限定するものはその生産費である。その効用がその価値を生産費の水準にまで高めない時には、その物はそれに要した費用に値しない。それは、生産的勤労がそれ以上の価値を有つ一貨物の創造に使用され得べかりしことの一証拠である。生産的基金の所有者、すなわち、労働、資本、または土地を処分し得る人々は、絶えず生産費と生産されたものの価値とを比較することに、または同じことに帰着するが、種々なる貨物の価値を相互に比較することに従事している。けだし生産費は一生産物を形成するに当って消費される生産的勤労の価値に他ならず、そして一生産的勤労の価値はその結果たる貨物の価値に他ならないからである。かくて一貨物の価値、一生産的勤労の価値、生産費の価値はすべて、あらゆる物がその自然的過程に委ねられている時には、同様な価値である。
五、所得の価値は、もしそれが生産物のより[#「より」に傍点]大なる分量を(いかなる方法によろうとそれは重要ではないが)獲得し得るならば、その時に増加される。
六、価格は諸物の価値の尺度であり、そしてその価値はその効用の尺度である。第二巻…………四頁。
七、自由に行われた交換は、吾々のいる時、所、及び社会状態において、人々が、交換される諸物に付与する価値を示す。…………四六六頁。
八、生産するということは、一物の効用を与えまたは増加せしめることによって、またかくして、その第一原因たる所の、それに対する需要を作り出すことによって、価値を創造することである。第二巻…………四八七頁。
九、効用が創造されて、一生産物が構成される。その結果たる交換価値は、この効用の尺度、行われた生産の尺度、たるに過ぎない。…………四九〇頁。
一〇、一特定国の人民が一生産物に見出す効用は、彼らがそれに対して与える価格による他に評価され得ない。…………五〇二頁。
一一、この価格は、その物が人々の判断において有する効用の尺度であり、彼らがそれを消費することから得る満足の尺度である、けだしもし、それが費さしめる価格で、彼らにより[#「より」に傍点]大なる満足を与える一効用を彼らが取得し得るならば、彼らはこの効用を消費することを択《えら》ばないであろうから。…………五〇六頁。
一二、ある人が彼の処分せんと欲する貨物と交換に直ちに取得し得る他のすべての貨物の分量は、常に、一つの争い得ない価値である。…………第二巻、四頁。
[#ここで字下げ終わり、ここで段組終わり]
もし生産費から生ずるもの以外に真実の高価ということがないならば(二、を見よ)、一貨物の生産費が増加しない場合に、いかにしてその価値は騰貴すると言えるか?(五、を見よ)、そしてそれは単に低廉な一貨物のより[#「より」に傍点]多くと、その生産費が減少した一貨物のより[#「より」に傍点]多くと、それが交換されるからであるか? 私が一|封度《ポンド》の金に対し、一|封度《ポンド》の鉄に対して与える二、〇〇〇倍の毛織布を与える時には、このことは、私が鉄に付与する効用の二、〇〇〇倍を金に付与することを証明するか? 確かに否。このことは、セイ氏が認めている如くに(四、を見よ)、単に金の生産費が鉄の生産費の二、〇〇〇倍なることを証明するに過ぎない。もしこの二金属の生産費が同一であるならば、私は両者に対して同一の価格を与えるであろう。しかしもし効用が価値の尺度であるならば、おそらく私は鉄に対してより[#「より」に傍点]多くを与えるであろう。
前へ
次へ
全70ページ中46ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
リカードウ デイヴィッド の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング