生産物のより[#「より」に傍点]大なる年々の分量を取得し得るならば、それは社会にとっていかなる重要さを有ち得ようか? この場合において資本の損失を悲しむ者は、手段のために目的を犠牲にせんとするものである。
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 穀価がいかに低く下落しようとも、もし資本が土地から移転され得ず、かつ需要が増加しないならば輸入は全く起らないであろう。けだし以前と同一量が国内において生産されるであろうからである。生産物分割が異り、そしてある階級は利益を受け他の階級は損害を受けるであろうとはいえ、生産総額はまさに同一であり、そして国民は全体としてより[#「より」に傍点]富みもせずより[#「より」に傍点]貧しくもならないであろう。
 しかし穀物の比較的低価から常に生ずる次の如き利益がある、――すなわち、現実の生産物の分割は、利潤なる名称の下に生産的階級に割当てられるものが増加し、地代なる名称の下に不生産的階級に割当てられるものが減少するに従って、労働の維持のための基金を増加する傾向が多くなるということ、これである。
 たとえ、資本が土地から引去られ得ずして、そこで使用されなければならず、しからざれば全然使用され得ないとしても、このことは真実である。しかし、もし資本の大部分が引去られ得るならば――明かに引去られ得たが――それが引去られるのは、それが元の処に留まらしめられるよりも、それから引去られる方がより[#「より」に傍点]多くの物を所有主に産出する場合に限られるであろう。それが引去られるのは、それが他の処で所有主にも公衆にもより[#「より」に傍点]生産的に使用され得る場合に限られるであろう。所有主は土地から引離し得ざる彼れの資本部分を抛棄することを肯《がえん》ずるが、けだし彼は、この資本部分を抛棄しない場合よりも、引去り得る部分をもって、より[#「より」に傍点]多くの価値とより[#「より」に傍点]多量の粗生生産物とを取得し得るからである。彼れの場合は、多くの費用を投じてその工場に機械を据附《すえつ》けたが、この機械が後に至って更に新発明によって非常に改良されたために、彼が製造した貨物の価値が著しく下落するに至った人の場合と、まさに同様である。彼が古い機械を抛棄し、そして古いもののすべての価値を失いながら[#「古いもののすべての価値を失いながら」に傍点]、より[#「より」に傍点]完全なるものを据附けるか、または引続き古いものの比較的弱い力を利用するかは、彼にとっては全然計算上の問題である。かかる事情の下において、それが古いものの価値を減少しまたは皆無にするという理由をもって、新しい機械の使用を断念せよと、誰が彼に勧告するであろうか? しかもこれが、穀物の輸入は農業者の資本中永久に土地に投ぜられた部分を減少しまたは皆無にするという理由をもって、その輸入を禁止せよと吾々に望む人々の議論なのである。彼らは、すべての通商の目的は生産を増加するにあり、かつ生産を増加することによってたとえ部分的損失は惹起されるにしても、一般的幸福は増加されるということを、知らないのである。彼らは、首尾一貫せんがためには、農業及び製造業におけるすべての改良及びすべての機械発明を阻止すべく努むべきである。けだしこれらの物は一般的豊富従ってまた一般的幸福に寄与するとはいえ、それはその採用の瞬間において、農業者及び製造業者の現存資本の一部分の価値を必ず減少または皆無ならしめるからである(註)。
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(註)穀物の輸入制限の不得策を論ずる著作物中の最も優れたものの中に入れるべきは、トランズ大佐の『対外穀物貿易論』である。彼れの議論は未だ反駁されず、かつ反駁し得ないように、私には思われる。
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 農業は、他のすべての事業と同様にそして特に商業国においては、強い一刺戟を有つ作用に続いて反対の方向に起る反作用を蒙るものである。かくて、戦争が穀物の輸入を妨げる時には、その結果たるその高き価格は、農業への資本投下が与える大なる利潤のために、資本を土地に牽附《ひきつ》ける。このことはおそらくその国の需要が必要とする以上の資本を用いしめ、それ以上の粗生生産物を市場に齎しめるであろう。かかる場合においては、穀価は供給過剰の結果下落し、そして平均的需要と等しくされるまでは多くの農業上の困苦が生み出されるであろう。
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    第二十章 価値及び富、両者の特性

(九五)アダム・スミスは曰く、『人は、彼が人生の必要品、便利品、及び娯楽品を享受することを得る程度に従って、富みまたは貧しいのである。』(編者註)
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(編者註)第一巻、第五章(訳者註――キャナン版、第一巻、三二頁、ただし原文には『あらゆる人は、云々』とある。)
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 しからば、価値は本質的に富と異る、けだし価値は生産の量に依存するものではなくその難易に依存するからである。製造業における一百万人の労働は、常に同一の価値を生産するであろうが、しかし必ずしも同一の富を生産しはしないであろう。機械の発明により、熟練の進歩により、より[#「より」に傍点]良き分業により、またはより[#「より」に傍点]有利な交換がなされ得べき新市場の発見によって、一百万の人々は、、一つの社会状態において、他の状態において生産し得るであろう所の二倍または三倍の富を、すなわち『必要品、便利品、及び娯楽品』を生産し得るであろうが、しかし彼らはその故に価値に何物かを附加するということはないであろう、けだしあらゆる物は、それを生産する難易に比例して、換言すればその生産に用いられる労働量に比例して、価値において騰貴しまたは下落するのであるが故である。一定の資本をもって、一定数の人間の労働が一、〇〇〇足の靴下を生産していたと仮定し、そして機械の発明によって同一数の人間が二、〇〇〇足の靴下を生産することを得、または彼らは引続き一、〇〇〇足の靴下も生産し得かつ五〇〇箇の帽子を余分に生産し得ると仮定すれば、二、〇〇〇足の靴下の価値、または一、〇〇〇足の靴下と五〇〇箇の帽子との価値は、機械の採用以前における一、〇〇〇足の靴下の価値以上でも以下でもないであろう、けだしそれらは同一量の労働の生産物であるからである。しかし貨物の総量の価値はそれにもかかわらず減少されるであろう、けだし、たとえ改良の結果増加された生産物量の価値は、何らの改良も起らなかった場合に生産されていたであろう所のより[#「より」に傍点]少い分量が有っていた価値と正確に同一であろうとはいえ、その改良以前に製造された所のなお未だ消費されない部分の財貨にもまた、影響が及ぶからである。それらの財貨は、いちいち、改良のすべての便益の下で生産された財貨の水準にまで下落しなければならぬから、その価値は下落するであろう。そして社会は、貨物の分量が増加されたにもかかわらず、その富が増大されその享楽資料が増大されたにもかかわらず、より[#「より」に傍点]少量の価値しか有たぬであろう。不断に生産の便宜を増加せしめることによって、吾々は啻に国富を増加せしめるのみならず更に将来の生産力を増加せしめているとはいえ、吾々は、同一の手段によって、不断に、以前に生産された貨物のあるものの価値を減少せしめるのである。経済学上の誤謬の多くは、この問題に関する誤謬、すなわち富の増加と価値の増加とをもって同じことを意味すると考えることから、また何が、価値の標準尺度を成すかについての根拠なき観念から、生じたものである。
(九六)ある人は貨幣をもって価値の一標準と考えている。そして彼によれば、一国民は、その有するすべての種類の貨物と交換され得る貨幣量の多少に比例して、富みまたは貧しくなるのである。他のものは、貨幣をもって交換の目的のための極めて便利な一媒介物ではあるが、しかしそれによって他物の価値を測定する適当な一尺度とは云えないとする。彼らによれば、価値の真実の尺度は穀物であり(註一)、そして一国は、その国の貨物と交換される穀物の多少に従って、富みまたは貧しいのである(註二)。更に他のものは、一国はそれが購買し得る労働量に従って富みまたは貧しいと考える。しかし何故《なにゆえ》に金や穀物や労働は、石炭や鉄以上に、――毛織布や石鹸や蝋燭やその他の労働者の必要品以上に、――価値に標準尺度となるべきであるか? ――略言すれば、何故《なにゆえ》にある貨物もしくはすべての貨物全体が、それ自身が価値において変動を蒙るのに、この標準となるべきであるか? 穀物は金と同じく生産の難易によって他物に比して一〇%、二〇%、または三〇%変動し得よう。何故《なにゆえ》に吾々は、変動したのはこれらの他物であって、穀物ではない、と常に言わねばならぬのか? 常にその生産に骨折と労働との同一の犠牲を必要とする貨物のみが不変なのである。吾々はかかる貨物の存在を知らない。しかし吾々は、それを知っているかの如くに仮設的にそれについて論じてよかろう。そして在来採用され来ったすべての標準が絶対的に無能力なことを明確に示すことによって、斯学に関する吾々の知識を進めることが出来るであろう。しかし、これらのもののいずれかが価値の正しい標準であると仮定しても、しかもなお、富は価値に依存するものではないから、それは富の標準とはならないであろう。人は、彼が支配し得る必要品及び奢侈品の多少によって富みまたは貧しいのである。そしてその貨幣や穀物や労働に対する交換価値が高かろうと低かろうと、それらのものは等しくその所有者の享楽に寄与するであろう。貨物、すなわち人生の必要品、便宜品、及び享楽品の分量を減少することによって富を増加し得ると主張され来ったのは、価値と富との観念の混乱の結果である。もし価値が富の尺度であるならば、このことは否定し得ないが、けだし貨物の価値は稀少によって騰貴するからである。しかしもしアダム・スミスが正しいならば、もし富は必要品及び享楽品から成るならば、富は分量の減少によっては増加され得ないものである。
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(註一)アダム・スミスは曰く、『貨物及び労働の真実価格と名目価格との間の区別は、単なる思弁上の事柄ではなく、時に実際上に極めて有用であろう。』私は彼に同意する。しかし労働及び貨物の真実価値は、アダム・スミスのいわゆる真実尺度たる所の財貨で測られた価格によって確められないことは、それが、彼のいわゆる名目尺度たる所の金及び銀で測られた価格によって確定されないのと同様である。労働者は、彼れの労賃が多量の労働の生産物を購買する場合にのみ、彼れの労働に対し真実に高い価格を支払われているのである。
(註二)その第一巻一〇八頁において、セイ氏は、『同一分量の銀は同一分量の穀物をを購買するであろうから、』銀は今日ルイ十四世の治下におけると同一の価値を有つと推論している。
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 稀少なる貨物を所有する人は、もしそれによって人生の必要品及び享楽品のより[#「より」に傍点]多くを支配し得るならば、より[#「より」に傍点]富んでいることは、真実である。しかし、各人の富の源泉たる一般的貯財は、ある個人が自分自身により[#「より」に傍点]多量を占有し得るに比例して必然的に減少しなければならない。
 ロウダアデイル卿は曰く、水をして稀少ならしめ一個人に独占的に所有せしめるならば水は価値を有つであろうから、彼れの富は増加されるであろうし、またもし国富が個人の富の総計であるならば、同一の手段によって国民の富も増加されるであろう、と。疑いもなくこの個人の富は増加されるであろうが、しかし、単に以前には無償で得ていた水を得んがために、農業者は彼れの穀物の一部分を、靴製造業者は彼れの靴の一部分を売らなければならず、そしてすべての人は、彼らの所有物の一部分を抛棄しなければならないから、彼らはこの目的に当てざるを得ぬ貨物の全量だけよ
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