両者が、それにもかかわらず、麦芽に対する租税は、麦酒《ビール》の消費者の負担する所となり、そして地主の地代の負担する所とはならないであろう、ということを認めているのは、注目すべきことである。アダム・スミスの議論は、麦芽に対する租税及び粗生生産物に対するあらゆる他の租税の問題について、私の懐《いだ》いている見解の極めて優れた叙述であるから、私は読者の注意を惹くためにそれを提示せざるを得ない。
『大麦耕作地の地代及び利潤は、常に、他の等しく肥沃であり等しく良く耕作された土地のそれとほとんど等しくなければならない。もしもそれがより[#「より」に傍点]少いならば、大麦地のある部分は直ちにある他の目的に向けられ、またもしそれがより[#「より」に傍点]多いならば、直ちにより[#「より」に傍点]多くの土地が大麦の栽培に向けられるであろう。ある特定の土地の生産物の通常価格が独占価格と呼ばれ得る価格にある時には、それに対する租税は必然的に、それを栽培する土地の地代及び利潤(註)を減少せしめる。そこで作る葡萄酒が、それが有効需要に対して不足しているために、その価格が、常に他の等しく肥沃であり等しく良く耕作された土地の生産物に対する、自然的比例以上である所の、その貴重な葡萄園の生産物に対する租税は、必然的にそれらの葡萄園の地代及び利潤(註)を減少せしめるであろう。葡萄酒の価格は、既に通常市場に送り出される分量に対して手に入れ得る最高の価格であるから、それはその分量を減少せしめることなくしては引上げられ得ず、そしてその分量は更により[#「より」に傍点]大なる損失を伴わずしては減少され得ない。けだしそれらの土地は、ある他の等しく高価な生産物に向けられ得ないからである。従ってこの租税のすべては地代及び利潤(註)の、正当には葡萄園の地代[#「地代」に傍点]の、負担する所となるであろう。』『しかし大麦の通常価格は決して独占価格であったことはない。そして大麦地の地代及び利潤が他の等しく肥沃であり等しく良く耕作された土地のそれに対する自然的比例以上であったことは決してない。麦芽、麦酒《ビール》、及び強麦酒《エイル》に課せられた種々なる租税が大麦の価格を低めたことは決してなく[#「大麦の価格を低めたことは決してなく」に傍点]、大麦地の地代及び利潤(註)を低減せしめたことは決してない。醸造業者に対する麦芽の価格は、絶えずそれに課せられた租税に比例して騰貴し来った。しかしそれらの租税並びに麦酒《ビール》及び強麦酒《エイル》に対する種々なる租税は、絶えずそれらの貨物の価格を騰貴せしめるか、または、同一のことに帰するが、消費者に対しそれらの貨物の品質を低下せしめるか、のいずれかであった。それらの租税の終局的支払は、消費者の絶えず負担する所となり、そして生産者の負担する所とはならなかった。』この章句についてビウキャナン氏は次の如く言う、『麦芽に対する租税は決して大麦の価格を低め得ないであろう。けだし大麦を麦芽にすることにより、それを麦芽にしないで売ることによって得られると同一の額が得られない限り、必要とされる分量は市場に齎されないであろうからである。従って麦芽の価格がそれに課せられた租税に比例して騰貴しなければならぬことは明かである。けだししからざれば需要は供給され得ないからである。しかしながら、大麦の価格は砂糖のそれとちょうど同程度で独占価格である。それら両者は地代を生み出し、そして両者の市場価格は等しくその原費とのすべての関係を失っているのである。』(編者註)
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(註)私は『利潤』なる言葉が省かれていたことを望む。スミス博士は、これらの貴重なる葡萄園の借地人の利潤が、一般利潤率以上であると想像しているに相違ない。もしその利潤がそうでなかったならば、彼らはそれを地主か消費者かに転嫁し得ざる限り、租税を支払おうとはしないであろう。
(編者註)『諸国民の富』ビウキャナン版、第三巻、三六八頁註。
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しからば麦芽に対する租税は麦芽の価格を騰貴せしめるであろうが、しかし麦芽がそれから造られる大麦に対する租税は大麦の価格を騰貴せしめないであろうし、従ってもし麦芽が課税されるならば、その租税は消費者によって支払われるであろうが、もし大麦が課税されるならば、地主の受取る地代は減少するであろうから地主がそれを支払うであろう、というのがビウキャナン氏の意見であるように思われる。かくてビウキャナン氏によれば、大麦は独占価格すなわち買手が喜んでそれに対し与えようとする最高の価格、にあるが、しかし大麦で造られた麦芽は独占価格になく、従ってそれは、それに対して課せらるべき租税に比例して引上げられ得るのである。麦芽に対する租税の結果に関するかかるビウキャナン氏の意見は、私には、彼がこれと同様な租税すなわちパンに対する租税について述べた意見と正反対であるように思われる。『パンに対する租税は窮極的に、価格の騰貴によってではなく地代の減少によって支払われるであろう。』(編者註)もし麦芽に対する租税が麦酒《ビール》の価格を騰貴せしめるならば、パンに対する租税はパンの価格を騰貴せしめなければならぬはずである。
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(編者註)同上、三五五頁。
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セイ氏の次の議論は、ビウキャナン氏のそれと同一の見解に基礎を置いている、『一片の土地が生産すべき葡萄酒または穀物の分量は、それに課せられる租税がどうであろうとも、引続きほとんど同一であろう。この租税は、その純生産物の、またはお好みならばその地代の、二分の一または四分の三をすら取り去るかもしれないが、しかもそれにもかかわらず、その土地はこの租税によって吸収されない二分の一または四分の一のために耕作されるであろう。地代すなわち地主の分前は、単に幾らかより[#「より」に傍点]低くなるに過ぎないであろう。このことの理由は、もし吾々が、仮定された場合においては、土地から取られる生産物の分量と市場に送られる分量とが、それにもかかわらず依然同一であるべきことを考察するならば、理解されるであろう。他方において、生産物に対する需要の基礎たる動機もまた、引続き同一である。
『さて、もし供給される生産物の分量と需要される分量とが、租税の新設または増加にもかかわらず、必然的に引続き同一であるならば、その生産物の価格は変動しないであろう。そして価格が変動しないならば、消費者はこの租税を少しも支払わないであろう。
『農業者すなわち労働及び資本を提供する者が地主と共に、この租税の負担を担うであろう、と言われるであろうか? 確かに言われない。けだしこの租税の事情は、貸付農場の数を減少せしめなかったし、また農業者の数も増加せしめなかったからである。この場合においてもまた、供給及び需要は依然同一であろうから、農場の地代もまた依然同じでなければならない。消費者をして単に租税の一部分を支払わしめ得るに過ぎない塩製造業者の例や、少しも償いを受け得ない地主の例は、経済学者に反対して、すべての租税は窮極的に消費者の負担する所となると主張する人々の、誤謬を証明している。』――第二巻、三三八頁。
もしも租税が『土地の純生産物の二分の一または四分の三すら取り去り、』しかも生産物の価格が騰貴しないならば、一定の収穫を得るためにより[#「より」に傍点]肥沃な土地よりも遥かにより[#「より」に傍点]大なる比例の労働を必要とする質の土地を占有して、極めて少額の地代を支払う農業者は、いかにして資本の通常利潤を取得し得るであろうか? たとえ全地代が免除されても、彼らは依然他の諸事業の利潤よりもより[#「より」に傍点]低い利潤を取得し、従って彼らがその生産物の価格を引上げ得ない限り、彼らはその土地の耕作を継続しないであろう。もしこの租税が農業者の負担する所となるならば、農場を賃借しようという農業者は減少し、またもしそれが地主の負担する所となるならば、多くの農場は、何らの地代をも与えないであろうから、全然賃貸されないであろう。しかし何らの地代をも支払わずに穀物を生産する者はいかなる資金からこの租税を支払うであろうか? この租税が消費者の負担する所とならねばならぬことは全く明かである。セイ氏が次の章句において述べている如きかかる土地は、いかにしてその生産物の二分の一または四分の三の租税を支払うであろうか?
『吾々はスコットランドにおいて、所有者によってかくの如くして耕作され他の何人によっても耕作され得ない瘠《や》せた土地を見る。かくてまた吾々は、合衆国の内部地方において、それより得られる収入のみでは所有者を維持するに足りない広大肥沃な土地を見る。これらの土地はそれにもかかわらず耕作されているが、しかしそれは所有者自身によってでなければならず、または換言すれば、彼をして相当に生活するを得せしめるためには、彼はほとんどまたは全くない所の地代に加えるに、彼れの資本及び勤労の利潤をもってしなければならない。土地は、耕作されても、いかなる農業者もそれに対して地代を払おうとはしない時には、地主に対して何らの収入をも産み出さないことはよく知られている。これはかかる土地は単にその耕作に必要な資本及び勤労の利潤を与えるに過ぎないということの一つの証拠である。』――セイ、第二巻、一二七頁(編者註)。
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(編者註)『経済学』第二版、第二篇、第九章。
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第十八章 救貧税
(九〇)吾々は、粗生生産物及び農業者の利潤に対する租税は、粗生生産物の消費者の負担する所となるであろうが、それはけだし、農業者が価格の増加によって補償を受ける力を有たない限り、この租税は彼れの利潤を利潤の一般水準以下に低減し、そして彼をしてその資本をある他の職業に移転せしめるであろうから、ということを見た。吾々は、彼は、それを彼れの地代から控除することによって、租税を地主に転嫁し得ないであろうが、それはけだし何らの地代も支払わない農業者も、より[#「より」に傍点]良い土地の耕作者と等しく、それが粗生生産物に課せられようとまたは農業者の利潤に課せられようと、この租税を課せられるであろうから、ということもまた見た。私は、もし租税が一般的であり、そして製造業のものであろうと農業のものであろうと、平等にすべての利潤に影響を及ぼすならば、それは財貨の価格にも粗生生産物の価格にも影響を及ぼさず、直接的にも窮極においても生産者によって支払われるであろう、ということをも証明しようと企てた。地代に対する租税は地主のみの負担する所となり、そして決して借地人に転嫁せしめられ得ないであろうことも、述べられた。
救貧税は、すべてのこれらの性質を有する租税であり、そして事情の異るにつれて、粗生生産物及び財貨の消費者や、資本の利潤や、土地の地代の負担する所となる。それは農業者の利潤の特に重く負担する所となる租税であり、従って、粗生生産物の価格に影響を及ぼすものと考え得よう。それが製造業利潤及び農業利潤の平等に負担となる程度に従って、それは資本の利潤に対する一般的租税となり、そして粗生生産物及び製造品の価格には何らの変動をも惹起さないであろう。農業者が特に彼に影響を及ぼす租税の部分に対し、粗生生産物の価格を引上げることによって自身に補償し得ないのに比例して、それは地代に対する租税となり、そして地主によって支払われるであろう。しからば、ある特定の時における救貧税の作用を知るためには、吾々は、その時にそれが農業者と製造業者との利潤に影響するのが、平等な程度においてであるか、または不平等な程度においてであるかを、並びに農業者に粗生生産物の価格を引上げる力を与えるような事情になっているか否かを、確かめなければならない。
(九一)救貧税は、農業者に、彼れの地代に比例して、賦課せらるべきである、と言われている。従って、極めて少額の地代を
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