かくて彼は以前と同様に富んでいるという信念で自ら欺くのである。全国民は、かくの如く推理し行動することによって、単に四千万の利子すなわち二百万を貯蓄するに過ぎず、かくの如くして、四千万の資本が生産的に使用された場合に与える利子または利潤のすべてを失うのみならず、更に彼らの貯蓄額と支出額との差額たる三千八百万をも失うのである。もし、前述の如く、各人が自己の借金をして国家の緊急費に対してその全分前を寄与しなければならなかったのであるならば、戦争の終了するや否や、課税は止み、そして吾々は直ちに物価の自然的状態に復帰するであろう。Aは、彼れの私的の資金から、彼が戦争中にBから借入れた貨幣に対する利子を、彼をして戦費に対するその分前を支払い得せしめるために、Bに支払わなければならないかもしれないが、しかしこれは国民の与《あずか》り知る所ではないであろう。
 大きな負債を累積した国は、最も不自然な地位に置かれる。そしてたとえ租税の額と労働の価格との騰貴とは、その国を、それらの租税を支払うという不可避的な不利益を除けば、諸外国との関係において、他の何らの不利益な地位にも置かないかもしれぬし、また置かないであろうと私は信ずるとはいえ、しかもこの負担から免れてこの支払を自分自身から他人に転嫁するのが、あらゆる納税者の利益となる。そして彼自身と彼れの資本とをかかる負担を免れる他国に移そうという誘惑はついに不可抗的のものとなり、そして彼の出生地との若き聯想の場面を去るに当って各人が感ずる当然の念を克服する。この不自然な制度に伴う困難に陥った国は、その負債を償還するに必要なその財産のある部分を犠牲にして、この困難から免れるのが賢明な遣り方である。一個人にとって賢明なことは一国民にとってもまた賢明なことである。五〇〇|磅《ポンド》の所得を齎す一〇、〇〇〇|磅《ポンド》を持ち、その中から年々一〇〇|磅《ポンド》を負債の利子に支払わなければならない人は、真実には単に八、〇〇〇|磅《ポンド》の財産を有つに過ぎず、そして彼が引続き年々一〇〇|磅《ポンド》を支払おうと、または一時にただの一囘限り二、〇〇〇|磅《ポンド》を支払おうと、その富の程度は同じであろう。しかし、この二、〇〇〇|磅《ポンド》を取得するために彼が売らなければならぬ財産の買手はどこにいるであろうか? と問われる。その答は明白である。この二、〇〇〇|磅《ポンド》を受取るべき国家債権者は、その貨幣の放資国を求めるであろう。そしてそれを地主または製造業者に貸付けるか、または彼らからその処分しなければならぬ財産の一部を購買する気になるであろう。かかる支払に対しては公債所有者達自身も大いに寄与するであろう。この計画はしばしば推奨され来ったものであるが、しかし吾々はそれを採用するに足る知識も有たなければまた勇気も有たない。しかしながら平和の時には、吾々の不断の努力は、戦争の間に契約された負債部分の返済に向けられねばならぬこと、また楽になりたいという誘惑や、現在の――そして望むらくは一時的の、困窮から逃れんとの願望のために、その大目的に対する吾々の注意を緩めてはならぬことが、承認されなければならない。
 いかなる減債基金も、もしそれが歳出に対する歳入の超過から得られるのでないならば、負債を減少する目的に対しては有効であり得ない。この国の減債基金が単に名目的に過ぎないのは遺憾のことである。けだし支出に対する収入の超過は全くないからである。それは節約によって、その名の如きものに、すなわち真に有効な負債支払のための基金たらしめられなければならぬ。もし将来戦争の勃発せる際に、我国の負債が著しく減少せしめられていないならば、その全戦費は年々徴収される租税によって支弁されなければならぬか、しからざれば、その戦争の終了前ではないにしても、その終了の時に、吾々は国民的破産に陥らなければならぬかの、いずれかである。吾々は公債の著しい増加に堪え得ないであろうというのではない。一大国民の力に限界を置くことは困難であろう。しかし、個々人が、単に彼らの故国で生活するという特権に対して、永続的課税の形において甘んじて支払う価格には確かに限界があるのである(註)。
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(註)『信用は一般的には、資本に、それが有用に用いられない人々を去って生産的たらしめられる人々に移るのを許すから、よいことである。すなわちそれは資本を、公債放資の如き、単に資本家にとって有用であるにすぎない用途から移転させ、それを産業に従事せる人々の手において生産的ならしめる。それはすべての資本の使用を便宜ならしめ、使用されない資本をなからしめる。』――『経済学』、四六三頁。第二巻、第四版――これはセイ氏の看過に相違ない。公債所有者の資本は決して生産的ならしめられ得るものではない、――それは事実上資本ではない。もし彼がその公債を売り、それに対して得た資本を生産的に使用するとすれば、彼はその公債の買手の資本を生産的用途より引離すことによってのみ、このことをなし得るのである。(編者註――この誤りは第五版で訂正された。第三巻、六〇頁。これは第三版にはなかったものである。第二巻、四四四頁。)
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(八八)一貨物が独占価格にある時には、それは消費者が喜んでそれを購買せんとする最高の価格にあるのである。貨物は、いかなる工夫によってもその分量が増加され得ない時にのみ、従って競争が全然一方の側に――すなわち買手の間に――ある時にのみ、独占価格にある。ある時期における独占価格は他の時期における独占的価格よりも遥かにより[#「より」に傍点]低いこともまたは高いこともあろう、けだし購買者の間における競争は、彼らの富及び彼らの嗜好や気紛れに依存しなければならぬからである。極めて限られた分量において生産される特殊の葡萄酒、及びその優越または稀少によって仮想的価値を得た美術品は、社会が富んでいるか貧しいか、それがかかる生産物を豊富にまたは稀少に所有しているか、またはそれが粗末な状態にあるか洗錬《せんれん》された状態にあるか、に従って、通常労働の生産物の極めて異る分量に対して交換されるであろう。従って独占価格にある貨物の交換価値は、どこにおいても生産費によって左右されないのである。
 粗生生産物は独占価格にはないが、けだし大麦及び小麦の市場価格は、毛織布及び亜麻布の市場価格と同様な程度にその生産費によって左右されるからである。唯一の差違はこうである、すなわち、農業に用いられる資本の一部分、換言すれば全然地代を支払わない部分が穀物の価格を左右するが、しかるに製造貨物の生産においては、資本のあらゆる部分の使用は同一の結果を齎し、そしていかなる部分も地代を支払わないから、あらゆる部分が等しく価格の規制者であるということである、すなわち穀物その他の粗生生産物もまた、より[#「より」に傍点]多くの資本の使用によって、量において増加せられ得、従ってそれは独占的価格にはないのである。買手の間におけると同様に売手の間にも競争がある。吾々の今まで論じていた稀少な葡萄酒や高価な美術品の生産においてはかかることは事実でない。その分量は増加され得ず、そしてその価格は購買者の力と意志の程度によってのみ制限される。かかる葡萄園の地代は、いかなる適当に指示し得る限界以上にも引上げられ得ようが、けだし他のいかなる土地もかかる葡萄酒を生産し得ないために、いかなる土地もかかる土地と競争せしめられ得ないからである。
(八九)もちろん一国の穀物及び粗生生産物はしばらくの間は独占的価格で売られるかもしれない。しかし、より[#「より」に傍点]以上いかなる資本も有利に土地に使用され得ない時、従ってその生産物が増加され得ない時にのみ、それは永続的にそうあり得るに過ぎない。かかる時には、あらゆる耕地部分、及び土地に使用されているあらゆる資本部分は、地代を生むであろうが、それは実に収穫の差違に比例して異っているのである。かかる時にはまた、農業者に課せられるべきいかなる租税も地代の負担する所となり、消費者の負担する所とはならないであろう。彼はその穀物の価値を引上げ得ないが、けだし、仮定によれば、それは既に、買手がそれを買うであろう所のまたは買い得る所の最高価格にあるからである。彼は、他の資本家の得る利潤率以下の利潤では満足しないであろう、従って彼がなし得る唯一の選択は、地代を引上げさせるか、または彼れの職業を中止するかであろう。
 ビウキャナン氏は、穀物及び粗生生産物は地代を産出するから、独占価格にあるものと、考えている。すなわち地代を産出するすべての貨物は独占状態にあるはずである、と彼は想像している。そしてこのことから彼は、粗生生産物に対するすべての租税は地主の負担する所となり、消費者の負担するところとはならない、と推論している。彼は曰く、『常に地代を与える穀物の価格は、いかなる点においてもその生産費によって影響されないから、それらの費用は地代から支払われなければならない。従ってそれが騰貴または下落する時には、その結果はより[#「より」に傍点]高いまたはより[#「より」に傍点]低い価格ではなくして、より[#「より」に傍点]高いまたはより[#「より」に傍点]低い地代である。かく観察すれば、農場の僕婢や馬匹やまたは農業機具に対するすべての租税は、実際には地租である。その負担は農業者の借地期間中は農業者の負担する所となり、そして借地契約が更新される時期になった時には地主の負担する所となる。同様にして、打穀機及び刈取機というが如き農業者の費用を節約するすべての改良された農耕器具、及び良い道路、運河、及び橋梁というが如き彼をしてより[#「より」に傍点]容易に市場に達せしめる一切のものは、穀物の原費は減少せしめるが、その市場価格は減少せしめない。従ってかかる改良によって節約されるものはすべて、地主に彼れの地代の一部として帰属するのである。』(編者註)
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(編者註)『諸国民の富』ビウキャナン版、一八一四年、第四巻、『諸観察』、三七、三八頁。
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 もし吾々がビウキャナン氏に、彼の議論が挙《よ》って樹《た》つ所の基礎、すなわち、穀物の価格は常に地代を生ずるということを譲歩するならば、彼が主張するすべての結果が当然それに随伴すべきことは明かである。しからば農業者に対する租税は、消費者の負担する所とはならずして、地代の負担する所となり、そして農耕上のすべての改良は地代を増加するであろう。しかし私は、一国がそのいかなる部分においても余す処なくしかも最高度に耕作される時までは、土地に用いられた資本の中に何らの地代をも生み出さない部分のあるということ、及び穀物の価格を左右するものはこの部分であり、その収穫は、製造業における如く、利潤及び労賃に分たれるということを、十分に明かならしめたと思う。かくて地代を与えない穀物の価格は、その生産によって影響されるのであるから、それらの費用は地代からは支払われない。従ってそれらの費用が増加する結果は、価格の騰貴であって、地代の下落ではない(註)。
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(註)『製造業者は需要に比例してその生産物を増加せしめ、そして価格は下落する。しかし土地の生産物はそのようには増加され得ない[#「しかし土地の生産物はそのようには増加され得ない」に傍点]。そして消費が供給を超過するのを妨げるためには、高い価格が必要である。』ビウキャナン、第四巻、四〇頁。ビウキャナン氏が、需要が増加しても土地の生産物は増加せしめられ得ないと真面目に主張することが出来るのは、果して可能であろうか?
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 粗生生産物に対する租税や地租や十分一税は、すべて土地の地代の負担する所となり、そして粗生生産物の消費者の負担する所とはならない、ということで全然一致するアダム・スミスとビウキャナン氏との
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