に寄与することが得策とされることがあり得よう。そして第二にこの租税は所得にさえも及ぼされ得ないであろうから、租税の額に関しての確実性がない。貯蓄を企てている人は、葡萄酒の飲用を止めて、葡萄酒に対する租税を免れるであろう。国の所得は減少されず、しかも国家は租税によって一シリングをも徴収し得ないであろう。
習慣によってその使用が愉楽となったものはいかなるものでも、これを放棄することは困難であり、そして極めて重い租税にもかかわらず引続き消費されるであろう。しかし、この放棄の困難にはその限界があり、そして経験は日々に課税の名目額の増加がしばしば徴税額を減少せしめることを説明している。ある人は、同一量の葡萄酒を、一本の価格が三シリング騰貴しても引続き飲用するであろうが、しかし彼は四シリングの騰貴額を支払うよりはむしろ葡萄酒の使用を中止するであろう。他の一人は甘んじて四シリングを支払うであろうが、しかし五シリングを支払うことは拒絶するであろう。同一のことは、奢侈品に対する他の租税について言い得よう。すなわち多くの者は一頭の馬が与えられる享楽に対して五|磅《ポンド》の租税を支払うであろうが、しかし一〇|磅《ポンド》または二〇|磅《ポンド》は支払おうとはしないであろう。彼らが葡萄酒や馬の使用を止めるのは、彼らがより[#「より」に傍点]多くを支払い得ないからではなくより[#「より」に傍点]多くを支払いたくないからである。あらゆる人は心の中にその享楽の価値を測定するある標準を有っているが、しかしその標準は人間の性格と同様に各種各様である。多額の国債従ってまた莫大の租税を課すという有害な政策のためにその財政状態が極度に人為的となっている国は、この租税引上方法に伴う不便に特に曝されている。租税を携えて全奢侈品を一巡した後に、馬や馬車や葡萄酒や僕婢やその他すべての富者の享楽品に課税した後に、大臣は、『すべての財政計画の中で最上のものは少く支出することであり、そしてすべての租税の中で最良のものは額が最少のものである』というセイ氏の金言を無視して、所得税や財産税というが如きより[#「より」に傍点]直接的な租税に頼る気になるのである。
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第十七章 粗生生産物以外の貨物に対する租税
(八六)穀物に対する租税が穀物の価格を騰貴せしめると同一の原則によって、ある他の貨物に対する租税はその貨物の価格を騰貴せしめるであろう。もし貨物が租税に等しい額だけ騰貴しないならば、それは生産者に彼が以前に得たと同一の利潤を与えず、そして彼はその資本をある他の職業に移すであろう。
それが必要品であろうと、奢侈品であろうと、すべての貨物に対する租税は、貨幣価値が不変である間は、その価格を少くとも租税に等しい額だけ高めるであろう(註)。労働者の製造必要品に対する租税は、必要品の中で第一のものでありかつ最も重要であるということによって他の必要品と異るに過ぎない所の穀物に対する租税と、同一の影響を労賃に対して有つであろう。そしてそれは資本の利潤及び外国貿易に対して正確に同一の影響を有つであろう。しかし奢侈品に対する租税は、その価格を騰貴せしめる以外に何らの影響を有たないであろう。それは全然その消費者の負担する所となり、そして労賃をも利潤をも下落せしめ得ないであろう。
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(註)セイ氏は次の如く述べている、『製造業者は、その貨物に課せられた全租税を消費者をして支払わしめることは出来ない、けだし価格騰貴はその消費を減少せしめるからである。』もしこれが事実であり、消費が減少せしめられるならば、供給もまた速かに減少せしめられないであろうか? 製造業者はその利潤が一般水準以下にある時に、何故《なにゆえ》にその職業を継続しなければならぬのであろうか? セイ氏はここでもまた、彼が他の場所で支持している次の如き学説を忘れているように思われる。すなわち、『生産費が、それ以下に貨物が長い期間に亘って下落し得ない価格を決定する、けだしその際には生産は中止されるかまたは減少されるからである。』第二巻、二六頁。
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『しからば租税はこの場合には、一部分は、課税貨物に対しより[#「より」に傍点]多くを支払うを余儀なくされる消費者の負担する所となり、また一部分は租税を控除した後により[#「より」に傍点]少い額を受取る生産者の負担する所となる。国庫は、購買者が余分に支払う額、並びに生産者がその一部を犠牲として提供するを余儀なくされる利潤だけ、利得するであろう。それが射出する弾丸に作用すると同時にそれが反衝せしめる銃身に作用するというのが、火薬の力である。』第二巻、三三三頁。
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(八七)戦費を支弁する目的でまたは国家の通常の経費として、一国に賦課せられ、そして主として不生産的労働者の支持に当てられる所の、租税は、その国の生産的産業から徴収される。そしてかかる経費が節約され得るごとに納税者の資本は増加しないとしても、一般に所得は増加するであろう。一年間の戦費として二千万が公債によって調達される時には、その国民の生産資本から引き去られるのはその二千万である。この公債の利子を支払うために租税によって調達される年々の一百万は、単に、それを支払う者からそれを受取る者に、納税者から国家の債権者に、移転されるに過ぎないものである。真の経費は二千万であって、それに対して支払わるべき利子ではない(註)。利子が支払われようと支払われまいと、国はより[#「より」に傍点]富みもせずより[#「より」に傍点]貧しくもならないであろう。政府は二千万を租税の形で一時に要求したかもしれない。その場合には年々の租税を一百万に当るだけ引上げる必要はなかったであろう。しかしながら、このことは取引の性質を変えはしなかったであろう。一個人は、年々一〇〇|磅《ポンド》の支払を要求されずして、時に二、〇〇〇|磅《ポンド》を支払うを余儀なくされたであろう。より[#「より」に傍点]大なる額を彼自身の資金から割くよりもむしろ、この二、〇〇〇|磅《ポンド》を借入れ、その債権者に利子として年々一〇〇|磅《ポンド》を支払う方が、また彼の利益に適したかもしれない。一方の場合にはそれはAとBとの間の私的取引であるが、他方の場合には、政府がBに、等しくAによって支払わるべき利子の支払を保証するのである。もしこの取引が私的性質のものであったならば、それについては何らの公の記録も作られず、そしてAがBに対して忠実に彼れの契約を履行しようと、または不当にも年々一〇〇|磅《ポンド》を彼自身の所有に保留しておこうと、それはこの国にとっては比較的にどうでもよい事柄であろう。国は契約の忠実な履行に一般的利害関係を有つであろうが、しかし国民的富に関しては、それは、AとBとの中《うち》いずれがこの一〇〇|磅《ポンド》を最も生産的ならしめるかについてより以外には、何らの利害関係をも有っていない。しかしこの問題については、それは決定すべき権利もなければ能力もないであろう。もしAがそれを彼れの使用のために保留しておくならば、彼はそれを無益に消費するかもしれず、またもしそれがBに支払われるならば、彼はそれを彼れの資本に加え、それを生産的に用いるかもしれない、ということも有り得よう。そしてその反対もまた有り得よう。すなわちBはそれを浪費するかもしれず、またAはそれを生産的に用いるかもしれない。富のみを目的とするならば、Aがそれを支払うことも支払わぬことも、同等にまたはより[#「より」に傍点]以上に望ましいかもしれない。しかしより[#「より」に傍点]大なる功利たる正義及び誠実の権利は、より[#「より」に傍点]小なる功利のそれに従属すべく強制されてはならない。従ってもし国家の干渉が要求されるならば、裁判所はAを強制して彼れの契約を履行せしめるであろう。国家によって保証された債務はいかなる点においても上の取引と異る所はない。正義と誠実とは、国債の利子が引続き支払わるべきことを、及びその資本を一般的利益のために前払した者は便宜という口実の下にその正当な権利を抛棄すべく求められてはならないことを、要求するのである。
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(註)『ムロンは曰く、一国民の負債は右手が左手に対する負債であり、それによって身体は弱められない、と。全体の富が未償還負債に対する利子支払によって減少されぬということは、真実である。利子は納税者の手から国家債権者へ移転する一価値である。それを蓄積しまたは消費するのが国家債権者であろうとまたは納税者であろうと、それは社会にとってほとんど大したことではないということには、私は同意する。しかし負債の元金――それはどうなったのであるか? それはもはや存在しない。公債に伴う消費は一資本を無くしてしまい、それはもはや収入を生み出さないであろう。社会は利子額を奪われはしないが、けだしそれは一方の手から他方の手に移るのであるからである。しかし、社会は破壊された資本からの収入を奪われている。この資本は、もし国家にそれを貸した人が生産的に使用したならば、同じく彼に一つの所得を齎したであろうが、しかしその所得は真実なる生産から得られたものであって、同胞二三の市民の懐中から供せられたものではなかったであろう。』セイ、第二巻、三五七頁、これは経済学の真精神で理解されかつ言い表わされている。
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しかしこの考察を別にしても、政治的功利が政治的廉直を犠牲にして何物かを得るであろうということは、決して確実ではない。国債の利子の支払を免除された当事者が、それを当然受くべきものよりもより[#「より」に傍点]生産的に使用するであろうということには、決してならない。国債を破棄することによって、ある人の所得は一、〇〇〇|磅《ポンド》から一、五〇〇|磅《ポンド》に高められるかもしれないが、しかし他の人のそれは一、五〇〇|磅《ポンド》から一、〇〇〇|磅《ポンド》に低められるであろう。これらの二人の所得は今二、五〇〇|磅《ポンド》であるが、その時にもそれはそれ以上ではないであろう。もし租税を徴収することが政府の目的であるならば、一方の場合には、他方の場合と正確に同一の課税し得る資本と所得とがあるであろう。しからば、一国が困窮せしめられるのは国債に対する利子の支払によってではなく、またそれが救済され得るのはその支払の免除によってではない。国民的資本が増加され得るのは、所得の貯蓄と支出上の節減とによってのみである。そして国債の破棄によっては、所得も増加せられず、また支出も減少されないであろう。国が貧窮化するのは、政府及び個人の浪費と負担とによってである。従って、公私の節約を助長せんがためのあらゆる方策は国の困窮を救済するであろう。しかし、真実の国民的困難が、正当にそれを負担すべき社会の一階級の肩から、あらゆる公平の原則に基いて彼らの分前以上負担すべきではない他の階級の肩に、それを転嫁することによって除去され得ると想像するのは、誤謬でありかつ妄想である。
上述せる所からして、私は借入金の方法をもって国家の非常費を支弁するに最もよく適合せるものと考えていると、推論されてはならない。それは吾々を、より[#「より」に傍点]不倹約ならしめるところの、――吾々をして自分の実情に盲目ならしめるところの、傾向ある方法である。もしある戦争の経費が年々四千万であり、かつある人がその年々の経費に対して寄与しなければならぬ分前が、一〇〇|磅《ポンド》であるとすれば、彼は、一時にその分担の支払を求められる時には、速かに彼れの所得から一〇〇|磅《ポンド》を貯蓄せんと努めるであろう。公債の方法によるならば、彼は単にこの一〇〇|磅《ポンド》の利子、すなわち年々五|磅《ポンド》の支払を求められるに過ぎず、そこで彼はその支出からこの五|磅《ポンド》を貯蓄するをもって足ると考え、
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