ェ、確実にはそのある部分は、彼らの消費の全価値を利潤と共に再生産すべき勤勉な者の雇傭と維持とのための、原料や道具や食料品から成っている。かくて社会の死せる貯財の一部分が生ける貯財に転化され、そして以前に用いられていた以上の分量の勤労を動かすであろう。』(訳者註)
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(訳者註)同上、一四――五頁。
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貨物の価格が騰貴せしめられるときに、課税か貴金属の流入かにより貴金属の自由貿易を許さないことによって、社会の死せる貯財の一部分は生ける資本に転化されるのを妨げられる、――より[#「より」に傍点]多量の勤労が用いられるのが妨げられる。しかしこれが害悪の全量であり、それは銀の輸出が許されまたは黙許されている国は少しも感じない害悪である。
諸国間の為替が平価にあるのは、事物の実状において諸国がその貨物の流通をなすに必要な通貨量を正確に有っている時に限られる。もし貴金属の取引が完全に自由であり、そして貨幣が何らの費用をも要せずして輸出され得るならば、為替はあらゆる国において平価以外には有り得ないであろう。もし貴金属の取引が完全に自由であり、その輸送の費用がかかってもそれが一般に流通に用いられるならば、為替はそのいずれの国においても、これらの費用だけ以上に平価から決して偏倚《へんい》し得ぬであろう。これらの原則は思うに今やどこにおいても異論のない所である。もしある国が、正金と交換されず従ってある固定的な本位によって左右されない紙幣を用いるならば、その国における為替は、その貨幣が、貨幣の取引が自由でありかつ貴金属類が貨幣としてかまたは貨幣の本位として用いられている場合に、一般的商業によってその国に割当てられた分量を超過して増加されると同一の比例で、平価から偏倚するであろう。
もし通商の一般的作用によって、既知の量目《りょうめ》と品位とを有つ地金で作られた一千万|磅《ポンド》貨が英国の持分であり、そして一千万の紙幣|磅《ポンド》がそれに代えられるならば、為替には何らの影響も生み出されないであろう。しかしもし紙幣発行権の濫用によって、一千一百万|磅《ポンド》が流通に用いられるならば、為替相場は英国にとり九%逆になるであろう。もし一千二百万が用いられるならば、為替相場は英国にとり一六%、そしてもし二千万ならば為替相場は五〇%逆になるであろう。しかしながらこの結果を生み出すためには、紙幣が用いられることは必要ではない。もし通商が自由であり、そして既知の量目と品位とを有つ貴金属類が貨幣としてかまたは貨幣の本位として用いられているならば流通したであろうよりも、より[#「より」に傍点]多量の磅《ポンド》を、流通界に保留するいかなる原因も、同一の結果を正確に生み出すであろう。貨幣の削減によって、各|磅《ポンド》が法律上含有すべき分量の金または銀を含有していないと仮定すれば、それが削減されなかった場合よりもより[#「より」に傍点]多数のかかる磅《ポンド》が流通に用いられるであろう。もし各|磅《ポンド》から十分の一が除かれるならば、一千万ではなく一千一百万のかかる磅《ポンド》が用いられるであろう。もし十分の二が除かれるならば、一千二百万が用いられるであろう。そしてもし二分の一が除かれるならば、三千万[#「三千万」はママ]は過剰ではないことが見出されるであろう。もし一千万の代りにこの二千万が用いられるならば、英国におけるあらゆる貨物はその以前の価格の二倍に引上げられ、そして為替相場は英国にとり五〇%逆になるであろう。しかしこのことは外国貿易に何らの混乱をも惹起《ひきおこ》さず、いかなる一貨物の製造を阻害することもないであろう。例えばもし毛織布が英国において一反につき二〇|磅《ポンド》から四〇|磅《ポンド》に騰貴したとしても、吾々はそれを騰貴前とまさに同様に自由にその以後も輸出するであろう。けだし五〇%の補償は為替において外国購買者になされ、その結果、彼れの貨幣二〇|磅《ポンド》をもって、英国において四〇|磅《ポンド》の負債を支払い得べき手形を彼は購買し得るであろうからである。同様にして、もし彼が、国内において二〇|磅《ポンド》を費しそして英国において四〇|磅《ポンド》で売れる貨物を輸出するとしても、彼は単に二〇|磅《ポンド》を受取るに過ぎないであろう、けだし英国における四〇|磅《ポンド》は外国宛の二〇|磅《ポンド》手形を購買するに過ぎないからである。単に一千万が必要であるに過ぎぬ場合に、二千万をして強いて英国における流通の仕事を遂行せしめるいかなる原因によっても、同一の結果が生ずるであろう。もし貴金属の輸出禁止というが如き不合理な法律が施行され得、そしてかかる禁止の結果が一千万ではなく造幣早々の一千一百万の良質の磅《ポンド》を強いて流通せしめることであったならば、為替相場は英国にとり九%逆になり、一千二百万ならば一六%、二千万ならば五〇%、英国にとり逆になるであろう。しかし英国の製造業にはいかなる阻害も与えられないであろう。もし内国貨物が英国において高価に売られるならば、外国貨物も同様であろう。そして外国の輸入業者が、一方において、その貨物が高価な率で売られる時に、為替相場で補償を与えざるを得ず、そして英国の貨物を高い価格で購買せざるを得ない時に、同一の補償を受けるであろう限り、それらが高いか安いかは彼らにほとんど重要でないであろう。しからば、禁止法によって、しからざればそこに留まっていたはずのものよりもより[#「より」に傍点]多量の金及び銀を流通せしめておくことからして、一国に発生し得べき唯一の不利益は、その資本の一部分を生産的に使用せずして、不生産的に使用することによって、それが蒙るべき損失であろう。貨幣の形においてはこの資本は何らの利潤をも生産しない、それを費して得る原料品、機械、及び食物の形においては、それは収入を生産し、そして国家の富と資源とを附加するであろう。しからば私は、課税の結果たる貴金属類の比較的低価、または換言すれば、貨物の一般的高価は国家にとって何らの不利益でもないが、けだしその金属の一部分は輸出され、そのためにその価値は高められて、再び貨物の価格を下落せしめるであろうから、ということを、満足に説明したと思う。そして更に、もし金属が輸出されないならば、もし禁止法によってそれが国内に留められ得るならば、為替相場に対する影響が高き価格の影響を相殺するであろう、ということを。かくてもし必要品及び労賃に対する租税が、それに労働が投ぜられるすべての貨物の価格を騰貴せしめないならば、それはこの理由によっては否とされ得ない。そして更にそれはかかる結果を有つであろうという、アダム・スミスのなしている意見の根拠が十分であるとしても、それは決してその故をもって有害であることはないであろう。それは、他のいかなる種類の租税に対しても正当に主張し得べき理由以外の理由のためには、非難され得ないのである。
地主は地主としてはこの租税の負担から除外されるであろう。しかし彼らが園丁《えんてい》、僕婢《ぼくひ》、等を養うことによって、彼らの収入の支出上直接に労働を使用する限りにおいて、彼らはその作用を蒙るであろう。
『奢侈品に対する租税は、この課税された貨物の価格以外のいかなる他の貨物の価格をも騰貴せしめる傾向を有たない』ということは、疑いもなく真実である。しかし、『必要品に対する租税は、労働の労賃を騰貴せしめることによって、必然的にすべての製造貨物の価格を騰貴せしめる傾向を有っている』というのは真実ではない。『奢侈品に対する租税は、何らの補償もなく、終局的に課税された貨物の消費者によって支払われる。それは無差別にあらゆる種類の収入、労働の労賃、資本の利潤、及び土地の地代の負担する所となる』というのは真実である。しかし、『必要品に対する租税は、それが労働貧民に影響する限りにおいて[#「それが労働貧民に影響する限りにおいて」に傍点]、終局的に、一部分は地主によりその土地の地代によって、また一部分は地主であろうとその他の者であろうとに論なく、富める消費者により製造財貨の価格騰貴によって、支払われる』というのは真実ではない。けだしかかる租税が労働貧民に影響する限りにおいて[#「けだしかかる租税が労働貧民に影響する限りにおいて」に傍点]、それはほとんど全部資本の利潤の減少によって支払われ、その単に一小部分のみが、各種の課税が齎す傾向がある労働に対する需要の減少によって、労働者自身によって支払われるであろうからである。
(八四)スミス博士が『中流及び上流の人民は、もし彼ら自身の利益を理解するならば、常に、生活必要品に対するすべての租税に、並びに労働の労賃に対するすべての直接税に反対すべきである』という結論に達したのは、かかる租税の結果につき誤れる見解をいだいていた故である。この結論は次の如き彼れの推理から生ずる、すなわち、『これら両者を終局的に支払うものは全然彼ら自身であり、そして常にかなりの超過負担を蒙る。それは地主の最も重く負担する所となるが、彼らは常に二重の資格において支払うのである。すなわち、地主の資格においてはその地代の低減によって、また富める消費者の資格においてはその支出の増加によって。ある租税はある財貨の価格の中に時に四囘も五囘も繰返されかつ累積されるとの、サア・マシウ・デカアの観察は、生活必要品に対する租税に関しては、完全に正当である。例えば、皮革の価格では、自分自身の靴の皮革に対する租税のみならず、靴製造業者及び鞣革《なめしがわ》製造業者の靴に対するそれの一部分も、支払わなければならない。諸君は、それらの職人が諸君のための仕事に従事している間に消費する塩や石鹸や蝋燭に対する租税と、塩製造業者や石鹸製造業者や蝋燭製造業者が彼らのための仕事に従事している間に消費する皮革に対する租税とを、支払わなければならない。』
さてスミス博士は、鞣革製造業者や塩製造業者や石鹸製造業者や蝋燭製造業者は、そのいずれも、皮革や塩や石鹸や蝋燭に対する租税によって利益を享《う》けるであろうとは主張せず、また政府は課税以上には受取らないことは確かであるから、その租税が誰の負担する所となろうとも、公衆によってより[#「より」に傍点]以上の額が支払われ得ると考えることは不可能である。富める消費者は、貧しい消費者のために支払ってやるかもしれず、また実際支払うであろうが、しかし彼らは租税の全額以上には支払わないであろう。従って、『租税が四囘も五囘も繰返されかつ累積される』というのは事理に反する。
ある課税制度には欠陥があるかもしれず、国庫に入る以上のものが人民から徴収されるかもしれない、けだし一部分は、価格に及ぼすその影響の結果として、おそらく特殊の課税方法によって利益を蒙る者の受領する所となるかもしれぬからである。かかる租税は有害であり、奨励されてはならない。けだし、租税の作用が正当である時には、それはスミス博士のの公理の第一と一致し、そして国家に入る以上には出来るだけ少く人民から徴収する、ということは、一つの原理となされ得ようからである。セイ氏は曰く、『他の者は財政計画を立て、そしてその臣民に何らの負担をもかけずに君主の金庫を充す手段を提案する。しかし財政計画が商業的企業の性質を有たない限り、それは政府に、ある他の形においては、個人か政府自身かからそれが徴収する以上を与えることは出来ない。杖の一撃では、無から有を造ることは出来ない。いかなる方法である作用が隠蔽されようとも、いかなる形体を吾々が価値にとらしめても、いかなる変態を吾々がそれに経過させようとも、吾々が価値を手に入れ得るのは、それを創造してか、またはそれを他人から取ることによってかである。すべての財政計画の中で最良のものは、出来るだけ経費を支出しないことであり、またすべての租税の中で最良のものは、額の最少のものである。』(編者註)
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(編者註)『経済
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