閨vに傍点]良い地位にあることになろうからである。もし毛織布製造業者、帽子製造業者、靴製造業者、等が各々彼らの財貨の価格を一〇%だけ引上げ得るとするならば、――一〇%が彼らにその支払った附加的労賃を完全に補償するものと仮定して、――もしアダム・スミスの言う如くに、『彼らが附加的労賃を利潤と共に[#「利潤と共に」に傍点]彼らの財貨の価格に添加する権能を有ちかつ添加せざるを得ない』ならば、彼らは相互の財貨を以前と同じ分量だけ各々消費することが出来、従って彼らは租税に対し何物をも支払わないであろう。もし毛織布製造業者が彼れの帽子と靴とに対してより[#「より」に傍点]多くを支払うとしても、彼はその毛織布に対してより[#「より」に傍点]多くを受取るであろうし、またもし帽子製造業者が彼れの毛織布と靴とに対してより[#「より」に傍点]多くを支払うとしても、彼はその帽子に対してより[#「より」に傍点]多くを受取るであろう。かくて彼らはすべての製造貨物を以前と同じだけの利益をもって購買し、博士の仮定であるが、穀物の価格は騰貴しないであろうし――スミス博士はそう仮定しているのであるが、――他方彼らはその購買に投ずべき附加額を有っているのであるから、彼らはかかる租税によって利益を受け、そして損害を蒙ることはないであろう。
 かくて、もし労働者も製造業者もかかる租税に対して貢献せず、もし農業者もまた地代の下落によって補償されるならば、地主のみが、啻にその全重量を負担しなければならぬのみならず、また彼らは製造業者の利得の増加にも貢献しなければならない。しかしながら、このことをなすには、彼らはその国内のすべての製造貨物を消費しなければならない、けだしその全量に対して課せられる附加的価格は、製造業における労働者に本来的に課せられた租税以上ではほとんどないからである。
 さて、毛織物製造業者、帽子製造業者、及びその他すべての製造業者が、相互の財貨の消費者であることは議論のない所であろう。あらゆる種類の労働者が石鹸や毛織布や靴や蝋燭やその他種々なる貨物を消費することは、議論のない所であろう。従ってかかる租税の全重量が地主のみの負担する所となるのは不可能である。
 しかしもし労働者がこの租税の何らの部分も支払わず、しかも製造貨物が価格において騰貴するならば、労賃は、啻に彼らに租税を補償するためのみならず、更に製造必要品の価格騰貴をも補償するために、騰貴しなければならず、このことは、それが農業労働に影響を及ぼす限りにおいて、地代の下落の一つの新原因となり、そして、それが製造業労働に影響を及ぼす限りにおいて、財貨の価格におけるより[#「より」に傍点]以上の騰貴の原因となるであろう。財貨の価格のこの騰貴は再び労賃に作用し、そしてまず労賃の財貨に対する、次いで財貨の労賃に対する、作用及び反作用は、指示し得る限度なしに拡大されるであろう。この理論を支持する議論ははなはだ不合理な結論に導くから、この原理の全然弁護し得ないことが直ちにわかるであろう。
 社会の自然的進歩と生産の逓増的困難とにつれての地代の騰貴及び必要品の騰貴とによって、資本の利潤と労働の労賃とに惹起されるすべての影響は、課税の結果たる労賃の騰貴によっても等しく起るであろう。従って労働者の諸々の享楽は、彼れの雇傭者のそれと同様に、この租税によって削減されるであろう。そして特にこの租税によってのみならず、これと等しい額を徴収するあらゆる他の租税によっても削減されるであろうが、けだしそれらはすべて労働の支持に向けられた基金を減少する傾向があるであろうからである。
 アダム・スミスの誤謬は、第一には、農業者の支払うすべての租税は、地代の減額の形で、必然的に地主の負担する所とならねばならぬ、と想像することから生ずる。この問題に関しては、私は最も十分に私の意見を述べた、そして私は、多くの資本が何らの地代をも支払わぬ土地に使用されるから、また粗生生産物の価格を左右するものはこの資本によって取得される結果であるから、地代からは何らの減額もなされ得ないということが、従って労賃に対する租税については農業者には何らの補償もなされずまたはもしなされたとしても、それは粗生生産物の価格への附加によってなされなければならないということが、読者を満足せしめるほどに、説明されたと信ずる。
 もし租税が農業者に対し不平等に圧迫を加えるならば、彼は、他の職業を営む者と同一の水準に立たんがために、粗生生産物の価格を引上げ得るであろう。しかし、いかなる他の職業に影響を及ぼすよりもより[#「より」に傍点]多く彼に影響を及ぼさない所の、労賃に対する租税は、粗生生産物の高き価格によっては、移転せしめられまたは補償され得ないであろう。けだし、彼を誘って穀物の価格を引上げしめると、すなわち租税に対する償いを彼に得せしめると、同一の理由が、毛織物製造業者を誘って毛織布の価格を引上げしめ、製靴業者、帽子製造業者、及び家具製造業者を誘って、靴、帽子、及び家具の価格を引上げしめるであろうからである。
 もしも彼らがすべてその財貨の価格を、利潤と共に租税に対する償いを得るように、引き上げ得るならば、彼らはすべて相互の貨物の消費者であるから、この租税が決して支払われ得ないであろうことは明かである、なぜならば、もしすべての者が補償を受けているならば、何人が納税者なのであろうか?
 しからば私は、労賃を騰貴せしめる結果を有つべき租税は、利潤の減少によって支払われ、従って労賃に対する租税は実際上利潤に対する租税であるということを、説明するに成功したと思う。
 労働と資本との生産物の労賃及び利潤間の分割の原則は、私はそれを樹立せんと試みたのであるが、私には極めて確実に思われるから、直接の結果を除けば、資本の利潤が課税されても労働の労賃が課税されても、ほとんど大したことではないと私は思うのである。資本の利潤に対する課税によって、おそらく、労働の維持のための基金が増加する率は変動し、そして労賃は、高きに過ぎるために、その基金の状態に比例しなくなるであろう。労賃に対する課税によって、労働者に支払われる報酬もまた、低きに過ぎるために、その基金の状態に比例しなくなるであろう。一方の場合においては貨幣労賃の下落により、他方の場合においてはその騰貴によって、利潤と労賃との間の自然的平衡は恢復されるであろう。かくて労賃に対する租税は、地主の負担する所とならず、資本の利潤の負担する所となる。それは、『親方製造業者に、利潤と共にそれを彼れの財貨の価格に添加する権能を与えかつ添加せざるを得ざらしめる』ことはないが、それはけだし彼はその価格を増加し得ないであろうからである、従って、彼は全然かつ報償なしに自分でかかる租税を支払わなければならない(註)。
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(註)セイ氏はこの問題に関する一般的意見を鵜呑みにしているように見える。穀物を論じて彼は曰く、『このことからして、その価格はすべての[#「すべての」に傍点]他の貨物の価格に影響を及ぼすということになる。農業者や製造業者やまたは商人は一定数の労働者を雇傭するが、この労働者はすべて、一定分量の穀物を消費しなければならぬ。もし穀物の価格が騰貴するならば、彼は、その生産物の価格をそれと等しい比例で引上げざるを得ない。』第一巻、二五五頁。
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(八三)もし労賃に対する租税の結果が、私の述べた如きものであるならば、それは、スミス博士によってそれに与えられた非難に値しないことになる。彼はかかる租税について曰く、『これらの租税及びその他の同じ種類のある租税は労働の価格を騰貴せしめることによって、オランダの製造業の最大部分を破壊したと言われている。これに類似の租税はそれほど重くはないが、ミラノ公国や、ジェノア共和国や、モデナ公国やパルマ、プラチェンティア、及びグァスタルラの諸公国や、法王領にある。やや著名なフランスのある学者は、他の租税に代うるにすべての租税の中で最も破壊的なこの租税をもってして、彼れの国の財政を改革せんと提議した。キケロは曰く、「非常に不合理な事柄にして時にある哲学者によって主張されなかったものはない。」』(訳者註一)また他の場所において彼は曰く、『必要品に対する租税は労働の労賃を騰貴せしめることによって、必然的にすべてのの製造品の価格を騰貴せしめ、従ってその販売及び消費の範囲を減少する傾向がある。』(訳者註二)たとえ、かかる租税は製造貨物の価格を騰貴せしめるというスミス博士の原則が正しいとしても、この租税はかかる非難には値しないであろう。けだし、かかる結果は単に一時的であり得るに過ぎず、そして吾々を外国貿易において、何らの不利益にも陥れないであろうからである。もしある原因が若干の製造貨物の価格を騰貴せしめるならば、それはその輸出を妨げ、または阻止するであろう。しかしもし同一の原因が一般的にすべてに対して作用するならば、その結果は単に名目的に過ぎず、そしてその相対価値にも影響を及ぼさねば、また物々交換――外国貿易も内国商業もすべての商業は実際物々交換であるが――に対する刺戟を何ら減少しもしないであろう。
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(訳者註一)キャナン版、第二巻、三五九――三六〇頁。
(訳者註二)同上、三五七頁。
[#ここで字下げ終わり]
 私は既に、ある原因がすべての貨物の価格を騰貴せしめる時には、その結果は貨幣価値の下落とほとんど同様であることを、証明せんと努めた。もし貨幣が価値において下落するならば、すべての貨物は価格において騰貴する。そしてもしこの結果が一国に限られるならば、それがその外国貿易に及ぼす影響は、一般課税によって惹起される貨物の価格騰貴と同一であろう。従って一国に限られた貨幣価値の下落から生ずる影響を検討する時には、吾々はまた一国に限られた貨物の価格騰貴から生ずる影響を検討しているわけである。実際、アダム・スミスはこの二つの場合の類似を十分知っており、そしてその輸出禁止の結果としてのスペインにおける貨幣のまたは彼れのいわゆる銀の価値の下落は、スペイン製造業及び外国貿易に極めて有害であることを、論理一貫して主張した。『しかし、特定国の特殊な地位かまたはその政治組織の結果たる銀価の下落が、単にその国に起るに過ぎないということは、極めて重大な事柄であり、それは何人かを真実により[#「より」に傍点]富ましめる傾向がある所かあらゆる者を真実により[#「より」に傍点]貧しからしめる傾向があるのである。この場合その国に特有な[#「この場合その国に特有な」に傍点]、すべての貨物の貨幣価格の騰貴は[#「すべての貨物の貨幣価格の騰貴は」に傍点]、その内部で行われているあらゆる種類の産業を多かれ少かれ阻害し、かつ外国国民をして、自国の労働者が提供し得るよりもより[#「より」に傍点]少量の銀に対してほとんどすべての種類の財貨を提供することによって、啻に外国市場だけではなく内国市場においてすらそれを下値に売るを得せしめる傾向を有っている。』第二巻、二七八頁。(訳者註)
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(訳者註)キャナン版、第二巻、一二――三頁。
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 その量が人為的に豊富にさせられたことから起る所の、一国における銀の価値下落の有つ不利益の一つは、――そして私はその唯一のものと考えるが――スミス博士により能く説明されている。もしも金銀の取引が自由であるならば、『外国に出るべき金額は何物とも引換えられずに出ることはなく、同一の価値を有つある種の財貨を持ち込むであろう。かかる財貨もまた、すべてがその消費と引換えに何物をも生産しない怠惰な者によって消費せらるべき単なる奢侈品及び高価品であるわけではないであろう。怠惰な者の真の富と収入とは、この異常な金銀の輸出によっては増加されないであろうから、彼らの消費もまたそれによっては増加されないであろう。それらの財貨は、おそらくはその大部
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