ネされるに至るかであろう。地主の資本が実に実際にはその目的のために用いられるであろう。名目上はそれは借地人によって費され、地主は、貸金の形かまたは借地期間に亘る年金の購買で、彼にその資を支給するのである。区別されていてもいなくとも、地主がこれらの種々なる目的物に対して受取る所の補償の性質の間に真実の差違がある。そして、土地の真実地代に対する租税は全然地主の負担する所となるが、地主が農場に投ぜられたその資本の使用に対して受取る補償に対する租税は、進歩的国家においては、粗生生産物の消費者の負担する所となることは、全く確実である。もし租税が地代に賦課され、そして現在借地人が地代の名の下に地主に支払う報償を区分する何らの方法も採用されないとしても、租税は、それが建物その他の造作に対する地代に関する限り、決してどんな短い間でも地主の負担する所とはならず、消費者の負担する所となるであろう。これらの建物等に投ぜられた資本は、資本の通常利潤を与えなければならない。しかしもしそれらの建物の費用が借地人の負担する所とならなければ、それは最後に耕作される土地においてこの利潤を与えないであろう。そしてもしそれが借地人の負担する所となるならば、借地人はそれを消費者に転嫁しない限り、彼れの資本の通常利潤を得なくなるであろう。
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第十一章 十分一税
(六四)十分一税は土地の総生産物に対する租税であり、そして粗生生産物に対する租税と同様に、全然消費者の負担する所となる。それは地代に対する租税が達しない土地に影響を及ぼす限りにおいてそれと異り、そしてこの地代に対する租税が変動せしめないであろう所の、粗生生産物の価格を引上げる。最も劣等の土地も、最良の土地と同様に、十分一税を、しかもそれらの土地から得られる生産物量に正確に比例して、支払う。従って十分一税は平等な租税である。
もしも最後の質の土地、すなわち何らの地代も支払わず穀価を左右するそれが、農業者に資本の通常利潤を与えるに足る分量を産出し、その時に小麦の価格が一クヲタアにつき四|磅《ポンド》であるならば、価格は、十分一税が賦課された後に同一の利潤が取得され得る以前に、四|磅《ポンド》八シリングに騰貴しなければならない、けだし小麦一クヲタアごとに耕作者は教会に八シリングを支払わなければならず、そしてもし彼が同一の利潤を得ないとすれば、彼が他の事業においてかかる利潤を得ることが出来る時にその職業を中止しないという理由はないからである。
十分一税と粗生生産物に対する租税との間の唯一の差違は、一方は可変的貨幣租税であり他方は定額貨幣租税であることである。穀物を生産する便宜が増加もせず減少もしない所の、社会の停止的状態においては、それらはその結果において正確に同一であろう、けだしかかる状態においては、穀物は不変的価格にあり、従って租税もまた不変であろうからである。退歩的状態か、または農業において大改良がなされ従って粗生生産物が他の物に比較して価値において下落するであろう所の状態かにおいては、十分一税は永続的貨幣租税よりもより[#「より」に傍点]軽い租税であろう。けだしもし穀価が四|磅《ポンド》から三|磅《ポンド》に下落するならば、租税は八シリングから六シリングに下落するであろうからである。社会の進歩的状態――しかも農業における何らの著しい改良もない状態――においては、穀価は騰貴し、そして十分一税は永続的貨幣租税よりもより[#「より」に傍点]重い租税となろう。もし穀物が四|磅《ポンド》から五|磅《ポンド》に騰貴するならば、同一の土地に対する十分一税は八シリングから十シリングに騰貴するであろう。
十分一税も貨幣租税も地主の貨幣地代には影響を及ぼさないであろうが、しかし両者は穀物地代には著しく影響を及ぼすであろう。吾々は既に、貨幣租税が穀物地代に影響する仕方を論じたが、同様な結果が十分一税によっても生み出さるべきことは等しく明かである。もし第一、第二、第三等地が各々一八〇、一七〇、及び一六〇クヲタアを生産するならば、地主は第一等地に対しては、二十クヲタア、また第二等地に対しては十クヲタアであろう。しかしそれらは十分一税を支払った後には、もはやこの比例を維持しないであろう。けだしもしその各々から十分の一が徴収されるならば、残りの生産物は一六二クヲタア、一四四クヲタアとなり、従って第一等地の穀物地代は一八クヲタアに、また第二等地のそれは九クヲタアに、減少させられるであろうからである。しかし穀価は四|磅《ポンド》から四|磅《ポンド》八シリング一〇・三分の二ペンスに騰貴するであろう。けだし一四四クヲタアが四|磅《ポンド》に対する割合は、一六〇クヲタアが四|磅《ポンド》八シリング一〇・三分の二ペンスに対する割合であるからである、従って貨幣地代は第一等地に対しては八〇|磅《ポンド》であり(註一)、また第二等地に対して四〇|磅《ポンド》であろうから(註二)、貨幣地代は引続き不変であろう。
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(註一)四|磅《ポンド》八シリング一〇・三分の二ペンスで一八クヲタア
(註二)四|磅《ポンド》八シリング一〇・三分の二ペンスで九クヲタア
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十分一税に対する主たる反対論は、それは永続的なかつ固定的な租税ではなくて、穀物を生産する困難が増加するに比例して価値において増加する、ということである。もしかかる困難が穀価を四|磅《ポンド》ならしめるならば租税は八シリングとなり、もしそれが穀価を五|磅《ポンド》に増加するならば租税は一〇シリングとなり、そして六|磅《ポンド》の時にはそれは一二シリングとなる。それは啻に価値において騰貴するのみならず、更にまた額において増加する。かくして第一等地が耕作された時には、租税は単に一八〇クヲタアに対して課せられるに過ぎず、第二等地が耕作された時には、それは 180+170 すなわち三五〇クヲタアに対して課せられ、そして第三等地が耕作された時には、180+170+160=510 クヲタアに対して課せられた。生産物が一百万クヲタアから二百万クヲタアに増加される時には、租税の額が一〇〇、〇〇〇クヲタアから二〇〇、〇〇〇に附加されるのみならず、更に第二の一百万を生産するに必要な労働の増加によって、粗生生産物の相対価値は増進せしめられ、その結果二〇〇、〇〇〇クヲタアは、量においては単に以前に支払われた一〇〇、〇〇〇クヲタアのそれの二倍に過ぎないが、しかも価値においては三倍であるであろう。
もし等しい価値が、教会のために、十分一税の増加と同様に耕作の困難に比例して増加する所のある他の手段によって、徴収されるならば、その結果は同一であろう、従って、それは土地から徴収される故に、ある他の方法によって徴収された場合の同額よりも、耕作をより[#「より」に傍点]多く阻害する、と想像するのは、誤りである。教会は双方の場合において、国の土地及び労働の純生産物の増加せる部分を不断に取得しつつあるであろう。社会の進歩しつつある状態においては、土地の純生産物は常にその総生産物に比例して逓減しつつある。しかし進歩的な国においても静止的な国においても、すべての租税が終局的に支払われるのは、国の総収入からである。総収入と共に増加しかつ純収入の負担とする所となる租税は、必然的に、極めて重荷的なかつ極めて堪え難い租税でなければならない。十分一税は、土地の総生産物の十分の一であり、その純生産物の十分の一ではなく、従って社会が富において進歩するにつれて、それは、総生産物については同一比例であるが、純生産物についてはますますより[#「より」に傍点]大なる比例とならなければならない。
(六五)しかしながら、十分一税は、外国穀物の輸入が妨害されていない間は、内国穀物の栽培に課税することによって、それが輸入に対する奨励金として作用する限りにおいて、地主によって有害である、と考えられるであろう。そしてもし、地主を、かかる奨励金が促進するはずの土地に対する需要の減少の結果から、救済するために、輸入穀物もまた、国内で栽培される穀物と等しい程度において課税され、そして生産物が国家に支払われるならば、いかなる方策もより[#「より」に傍点]正当かつ公平ではあり得ないであろう。けだしこの租税によって国家に支払われるものはいかなるものも、政府の経費が必要ならしめる他の租税を減少せしめるに至るであろうからである。しかしもしかかる租税が単に教会に支払われる資金を増加することに向けられるならば、それは実際全体としては生産の全量を増加することは出来ようが、しかしそれは生産階級に割当てられた額の部分を減少するであろう。
もし毛織布の貿易が完全に自由に委ねられているならば、我国の製造業者達は、吾々が毛織物を輸入し得るよりもより[#「より」に傍点]低廉にそれを売却し得よう。もし租税が国内の毛織物製造業者に賦課され、そしてその輸入業者には賦課されないならば、資本は害を受けて毛織布の製造からある他の貨物の製造に追いやられるであろうが、それはけだし毛織布はその際には国内で製造され得るよりもより[#「より」に傍点]低廉に輸入され得ようからである。もし輸入毛織布もまた課税されるならば毛織布は再び国内において製造されるであろう。消費者は最初は国内において毛織布を買ったが、けだしそれが外国毛織布よりもより[#「より」に傍点]低廉であったからである。彼は次いで外国毛織布を買ったが、けだし課税された国内毛織布よりもそれは課税されずしてより[#「より」に傍点]低廉であったからである。彼は最後にそれを国内で買ったが、けだし内国及び外国の毛織布の双方が課税された時には内国のものがより[#「より」に傍点]低廉であったからである。彼がその毛織布に対し最大の価格を支払うのは最後の場合であるが、しかしすべての彼れの附加的支払は国家の利得となるのである。第二の場合においては、彼は第一の場合よりもより[#「より」に傍点]多く支払うが、しかし彼が附加的に支払うすべては、国家の受取る所とはならない、彼に課せられるのは生産の困難により惹起される増加価格である、けだし最も容易な生産の手段が、租税の束縛を受けて吾々から遠ざけられているからである。
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第十二章 地租
(六六)土地の地代に比例して賦課され、かつ地代の変動ごとに変動する地租は、結果において地代に対する課税である。そしてかかる租税は、何らの地代をも生じない土地には、または単に利潤のみを目的として土地の上に使用されかつ決して地代を支払わない所の資本の生産物にも、適用されないから、それは決して粗生生産物の価格に影響を及ぼさないであろうが、しかし全く地主の負担する所となるであろう。いかなる点においてもかかる租税は地代に対する租税と異らないであろう。しかしもし地租がすべての耕地に対して課せられるならば、それがいかに適当であろうとも、それは生産物に対する租税であり、従って生産物の価格を高めるであろう。もし第三等地が最後に耕作される土地であるならば、たとえそれは何らの地代をも支払わなくとも、それは、課税された後は、生産物の価格が租税の支払に応ずるために騰貴せざる限り、耕作され得ずかつ利潤の一般率を与え得ない。資本がその職業から抑留されて、ついに需要の結果、穀物価格が通常利潤を与えるに足るほど騰貴するに至るか、またはもし既にかかる土地に用いられているならば、それは、より[#「より」に傍点]有利な職業を求めてこの土地を去るか、であろう。この租税は地主には転嫁され得ない、けだし仮定によれば彼は何らの地代をも受取らないからである。かかる租税は、土地の質及びその生産物量に比例せしめられるべく、しかる時にはそれはいかなる点においても、十分一税と異らない。あるいはそれはあらゆる耕地――その地質がいかなるものであろうとも――に対するエーカア当りの固定的租税であろう。
(六七)この最後の種類の地
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