フ一部分であり、そして常に終局においては、一国の資本かまたは収入かから支払われるものである。
吾々は既にいかにして一国の資本が、その耐久性の多少に従って、固定資本かまたは流動資本かになることを示した。流動資本と固定資本との区別がどこから始まるかを、厳密に定義するのは困難であるが、それはけだし資本の耐久力にはほとんど無限の各程度があるからである。一国の食物は少くとも毎年一度は消費されかつ再生産される。労働者の衣服は、おそらく二年以内に消費されかつ再生産されはしないであろう。しかるに彼れの家屋や什器は十年または二十年の間耐えるものと計算されている。
一国の年々の生産がその年々の消費を代置して余りある時には、それはその資本を増加せしめると言われる。その年々の消費が少くともその年々の生産によって代置されない時には、それはその資本を減少すると言われる。従って資本は、生産の増加によりまたは不生産的消費の減少によって、増加され得よう。
もし政府の消費が附加的税の賦課によって増加された時に、人民の側における生産の増加かまたは消費の減少かがあるならば、租税は収入の負担する所となり、そして国民資本は何らの害を蒙らないであろう。しかしもし人民の側において生産の増加または不生産的消費の減少がないならば、租税は必然的に資本の負担する所となり、換言すれば、それは生産的消費に当てられた資金を害するであろう(註)。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
(註)一国のすべての生産物は消費されるが、しかしそれが、再生産する者によって消費されるか、または他の価値を再生産しない者によって消費されるかは、想像し得る最大の相違をなすものであることを、理解しなければならない。吾々が、収入が貯えられそして資本に附加される、と言う時には、吾々の意味する所は、資本に附加されると言われる収入の部分が、不生産的労働者ではなく生産的労働者によって消費される、ということである。資本は非消費によって増加されると想像するよりもより[#「より」に傍点]大なる誤謬はあり得ない。もしも労働の価格が、資本の増加にもかかわらず、より[#「より」に傍点]多くの労働を雇い得ないほど騰貴したならば、私は、かかる資本の増加はなお不生産的に消費されるであろう、と言わなければならない。
[#ここで字下げ終わり]
一国の資本が減少するに比例して、その生産物は必然的に減少するであろう。従って、もし人民の側と政府の側とにおける同一の不生産的支出が続くのに、年々の再生産が不断に減少して行くならば、人民と国家との資源は加速度的に失われ、そして惨苦と破滅とがそれに随伴するであろう。
過去二十年間(編者註)における英国政府の莫大な支出にもかかわらず、人民の側における生産の増加がこれを償って余りあったことは、ほとんど疑い得ない。国民資本が啻に害されなかったのみならず、それはまた大いに増加され、そして人民の年々の収入は、その租税を支払った後にすら、おそらく、現在においては吾々の歴史のいかなる以前の時代におけるよりもより[#「より」に傍点]大であろう。
[#ここから2字下げ]
(編者註)一七九三――一八一五年。
[#ここで字下げ終わり]
この証拠として吾々は、人口の増加や、――農業の拡張や、――航海業及び製造業の増加や、――船渠の建造や、――多数の運河の開設や、並びに多くの他の費用を多く要する企業を、挙げ得ようが、そのすべては、資本及び年々の生産の両者の増加を示すものである。
しかしながらそれでもなお、租税がなければこの資本増加が遥かにより[#「より」に傍点]大であったであろうことは確実である。蓄積の力を減少せしめる傾向を有たない租税はない。すべての租税は資本か収入かの負担する所とならねばならない。もしそれが資本を蚕食するならば、それは、その程度に応じて国の生産的産業の範囲が常に左右されねばならぬ所の資金を比例的に減少しなければならない。そしてもしそれが収入の負担する所となるならば、それは蓄積を減少せしめるか、または、納税者をして、彼らの以前の生活の必要品及び奢侈品の不生産的消費をその租税の額だけ減少せしめることによって、この額を貯蓄せしめるか、でなければならない。ある租税は、かかる結果を、他の租税よりも、遥かにより[#「より」に傍点]大なる程度において産み出すであろう。しかし課税の大なる害悪は、その目的物の選択にあるよりは、全体としてのその結果の総額にあることが見出さるべきである。
租税は資本に課せられたという故をもって必然的に資本に対する租税であるわけではなく、また所得に課せられたという故をもって所得に対する租税であるわけでもない。もし私の一年一、〇〇〇|磅《ポンド》の所得から、私が一〇〇|磅《ポンド》を支払わせられても、私が残りの九〇〇|磅《ポンド》の支出で満足するならば、それは真実に私の所得に対する租税であろうが、しかしもし私が引続き一、〇〇〇|磅《ポンド》を支出するならば、それは資本に対する租税であろう。
そこから私の一、〇〇〇|磅《ポンド》の所得が得られる資本が一〇、〇〇〇|磅《ポンド》の価値を有つとすれば、資本に対する一%の租税は一〇〇|磅《ポンド》であろう。しかしもし私が、この租税を支払った後に同様に、九〇〇|磅《ポンド》の支出をもって満足するならば、私の資本は影響を受けないであろう。
生活上のその地位を維持し、かつその富を一度達せられた高さに維持せんとする、あらゆる人の有つ願望は、大抵資本に課せられたものでも所得に課せられたものでもその大抵の租税を、所得から支払わせるようにする。従って租税が増進するにつれまたは政府がその増加するにつれて、人民の年々の享楽は、彼らが比例的にその資本との所得とを増加し得ない限り、減少せしめられなければならない。
(五五)人民の間にこのことをなさんとする志向を奨励し、そして常に資本の負担に帰すべき租税を決して賦課しないというのが、政府の政策でなければならない。けだしかくすることによって、それは労働の支持のための基金を害し、それによって国の将来の生産を減少せしめるからである。
英国においては、遺言検認税、遺贈税、及び死者より生者への財産の移転に影響を及ぼすあらゆる租税を課して、この政策を無視している。もし一、〇〇〇|磅《ポンド》の遺産が一〇〇|磅《ポンド》の租税を負担するならば、遺産相続人はその遺産を単に九〇〇|磅《ポンド》と考えるに過ぎず、そして彼れの支出の中から、一〇〇|磅《ポンド》の税を節約しようとする何らの特定の動機をも感ぜず、かくて国の資本は減少せしめられる。しかしもし彼が真実に一、〇〇〇|磅《ポンド》を受取り、そして所得や葡萄酒や馬や僕婢に対する租税として、一〇〇|磅《ポンド》を支払わしめられるならば、彼はおそらくその額だけ、その支出を減じまたはむしろ増加せしめなかったであろうし、そして国の資本は害されなかったであろう。
アダム・スミスは曰く、『死者から生者への財産の移転に対する租税は、終局的にかつ直接的に、財産が移転せられる人の負担する所となる。土地の売却に対する租税は全然売手の負担する所となる。売手はほとんど常に売却せねばならぬ地位にあるのであり、従って彼が得ることの出来るどんな価格でも受取らなければならない。買手はほとんど購買せねばならぬ地位にあるのではなく、従って彼は単に自己の好む価格を与えるに過ぎないであろう。彼は租税と価格とを合計して土地が幾干《いくばく》に値するかを考慮する。租税の方に多くを支払うを余儀なくされるほど、彼は価格の方により[#「より」に傍点]少く与える気になるであろう。従ってかかる租税はほとんど常に必要に迫られている人の負担する所となり、従って極めて惨酷にして圧制的でなければならない。』(編者註一)『印紙税及び借金証書と借金契約との登記に対する租税は、全然借手の負担する所となり、そして事実上常に彼によって支払われる。訴訟に対する同種の租税は原告の負担する所となる。それは両者にとって係争物の資本価値を減少せしめる。ある財産を獲得するに費用が多くかかればかかるほど、それが得られた時の純価値は少くなければならない。あらゆる種類の財産の移転に対するすべての租税は、それがその財産の資本価値を減少する限り、労働の支持に向けられた資金を減少する傾向がある。それらはすべて主権者の収入を増加せしめる多かれ少かれ浪費的な租税であるが、それは生産的労働者以外のものを支持しない国民資本を犠牲として、不生産的労働者以外の者を支持することの稀なものである。』(編者註二)
[#ここから2字下げ]
(編者註一)『諸国民の富』第五篇第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三四六頁)。
(編者註二)同上(訳者註――三四六――三四七頁)。
[#ここで字下げ終わり]
しかしこれは財産の移転に対する租税への唯一の反対論ではない。それは国民資本が社会に最も有利に分配されることを妨げるものである。一般的繁栄のためには、あらゆる種類の財産の移転及び交換にいかに便宜が与えられても多過ぎるということは無い、けだしあらゆる種類の資本が、国の生産を増加するためにそれを最もよく使用する者の手に入るようになるのは、かかる手段によるものであるからである。セイ氏は問う、『何故《なにゆえ》に一個人はその土地を売らんと欲するのであるか? それは彼が、その資金がより[#「より」に傍点]生産的となるべき他の用途を考えているからである。何故に他の人はこの同じ土地を買わんと欲するのであるか? それは、彼に余りにわずかしか齎さず、または用途がなく、または彼がその使用を改善し得ると考える、ある資本を用いんがためである。この交換は一般所得を増加せしめるであろうが、それはけだしこれらの当事者の所得を増加せしめるからである。しかしもし、賦課がこの交換を妨げるほどに過大であるならば、それは一般所得のこの増加に対する障害である。』(編者註)しかしながらこれらの租税は容易に徴収される、そしてこのことは多くの人々によって、その有害な結果に対する幾らかの補償を与えるものと考えられるであろう。
[#ここから2字下げ]
(編者註)経済学、第三篇、第八章、三〇九頁。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第九章 粗生生産物に対する租税
(五六)本書の前の部分において、私は、穀価は何ら地代を支払わない土地のみにおける、またはむしろ何ら地代を支払わない資本のみをもってする穀物の生産費によって左右される、という原則を、望むらくは満足に、樹立したから、生産費を増加せしめるものはいかなるものも価格を騰貴せしめるであろうし、それを減少せしめるものはいかなるものも価格を下落せしめるであろう、ということになるであろう。より[#「より」に傍点]貧弱な土地を耕作し、または既耕地へ一定の附加的資本を用いてより[#「より」に傍点]少い収穫を取得する必要は、粗生生産物の交換価値を不可避的に高めるであろう。耕作者をしてより[#「より」に傍点]少い生産費をもってその穀物を取得し得せしめるべき機械の発明は、その交換価値を必然的に低めるであろう。地租の形においてであろうと十分一税の形においてであろうとまたは取得された時に生産物に課せられる租税の形においてであろうと、とにかく耕作者に課せられるあらゆる租税は、粗生生産物の生産費を増加せしめ、従ってその価格を高めるであろう。
もし粗生生産物の価格が耕作者にその租税を補償するほど騰貴しないならば、彼は当然に、彼れの利潤が利潤の一般水準以下に低減せしめられた職業を、中止するであろう。このことは供給の減少を惹起し、ついに、以前通りの需要は、粗生生産物の耕作をして他の職業への資本投下と同様に有利ならしめる如くに、その価格を騰貴せしめるであろう。
価格の騰貴ということが、彼が租税を支払い、かつ彼れの資本をこのように用いることより通常のかつ一般の利潤を引続き得ることが出来る、唯一
前へ
次へ
全70ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
リカードウ デイヴィッド の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング