ッ様にして第三等地が耕作されるに至る時には第二等地の地代は十クヲタアで、または十クヲタアの価値で、なければならないが、しかるに第一等地の地代は二十クヲタアに騰貴するであろう、ということが証明され得よう。けだし第三等地のの耕作者は、第一等地の地代として二十クヲタアを支払おうと、第二等地の地代として十クヲタアを支払おうと、または全く地代を支払わずに第三等地を耕作しようと、同一の利潤を得るであろうからである。
(二六)第二等地、第三等地、第四等地、または第五等地、または更に劣等な土地が耕作されるに先だって、資本が既に耕作されている土地の上により[#「より」に傍点]生産的に用いられ得るということは、しばしば、そして実に通常、起ることである。第一等地に用いられる最初の資本を倍加することにより、生産物は倍加されず、すなわち一〇〇クヲタアだけは増加されないであろうが、それは八十五クヲタアだけ増加され得、そしてこの量は同一の資本を第三等地に用いて獲得され得る量を超過することが、おそらく見出されるであろう。
かかる場合には資本はむしろ旧地に用いられ、そして等しく地代を作り出すであろう。けだし地代は常に、等量の二つの資本及び労働の使用によって得られた生産物の差額であるからである。もし一、〇〇〇|磅《ポンド》の資本をもって一借地人が一〇〇クヲタアの小麦をその土地から得、そして第二の一、〇〇〇|磅《ポンド》の資本の使用によって更に八十五クヲタアを、またはそれと等しい価値を、支払わしめる力を有つであろうが、それはけだし二つの利潤率は有り得ないからである。もしこの借地人が彼れの第二の一、〇〇〇|磅《ポンド》に対する報酬における十五クヲタアの減少に満足するとするならば、それはより[#「より」に傍点]有利な用途がそれに対し見出され得ないからである。通常の利潤率はその比例にあるのであり、そして元の借地人が、この利潤率を超過するすべてを、彼がそれからそのものを得た所の土地の所有者に与えることを拒むとしても、ある他の者がこれを喜んで与えることが、見出されるであろう。
この場合にも他の場合にも、最後に用いられたる資本は何らの地代も支払わない。第一の一、〇〇〇|磅《ポンド》のより[#「より」に傍点]大なる生産力に対しては、十五クヲタアが地代として支払われ、第二の一、〇〇〇|磅《ポンド》の使用に対してはいかなる地代も全く支払われない。もし第三の一、〇〇〇|磅《ポンド》が同一の土地に用いられ、七十五クヲタアの報酬を齎すならば、地代は第二の一、〇〇〇|磅《ポンド》に対して支払われ、そしてそれはこれら両者の生産物の差違に、すなわち十クヲタアに等しいであろう。そして同時に、第一の一、〇〇〇|磅《ポンド》に対する地代は十五クヲタアから二十五クヲタアに騰貴するであろう。しかるに最後の一、〇〇〇|磅《ポンド》はいかなる地代も全く支払わないであろう。
しからば、もし良い土地が、増加しつつある人口に対する食物の生産が必要とするよりも遥かにより[#「より」に傍点]豊富な量において存在するならば、またはもし資本が報酬の減少を齎すことなくしてして旧地に無限に用いられ得るならば、地代の騰貴はあり得ないであろう。けだし、地代はあまねく、比例的な報酬の減少を伴う附加的労働量の使用から発生するものであるからである。
(二七)最も肥沃にしてかつ最も位置の便利の良い土地が、第一に耕作されるであろう。そしてその生産物の交換価値は、あらゆる他の貨物の交換価値と同様に、それを生産し、それを市場に齎すに必要な、最初から最後までに種々なる形をとる所の、労働の全量によって、調整されるであろう。劣等の質の土地が耕作されるに至る時には、粗生生産物の交換価値は、それを生産するためにより[#「より」に傍点]多くの労働が必要であるために、騰貴するであろう。
すべての貨物の交換価値は、それが製造品であろうと、または鉱山の生産物であろうと、または土地の生産物であろうとに論なく、常に、極めて有利な、かつ生産の特殊便益を有つ者が独占的に享受している所の事情の下において、その生産に足りるであろう所の、比較的少量の、労働によって左右されるのではなく、かかる便益を有たず、引続き最も不利な事情――ここに最も不利な事情とは、必要とされる生産物量を供給するためにその下でなお生産を行うことの必要な、その最も不利な事情を意味する――の下においてそれを生産する者によって、その生産に対し必然的に投下される所の比較的多量の労働によって左右されるのである。
かくて、貧民が慈善家の基金で仕事に従事させられている慈善的施設においても、かかる仕事の生産物たる貨物の一般的価格は、これらの労働者に与えられた特殊便益によっては支配されずに、あらゆる他の製造業者が遭遇しなければならぬ一般的の通常のかつ自然的の困難によって支配されるであろう。もしこれらのめぐまれた労働者によってなされる供給が社会のすべての欲求する所と等しいならば、これらの便益を一つも享有しない製造業者は実際、全然市場から駆逐されるであろう。しかしもし彼が事業を継続するとするならば、それは、彼がそれから資本に対する通常のかつ一般的の利潤率を取得する、という条件の下においてのみであろう。そしてこのことは、彼れの貨物がその生産に投ぜられた労働量に比例する価格で売られる時にのみ、起り得ることであろう(註)。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
(註)セイ氏は次の章句において、終局的に価格を左右する所のものは生産費であることを、忘れていないであろうか? 『土地に用いられる労働の生産物はこういう特性を有っている、すなわち、それはより[#「より」に傍点]稀少になったからとて、より[#「より」に傍点]高価にはならない、けだし人口は常に食物が減少すると同時に減少するからである。しかのみならず、穀物は、完全に耕作されている国よりも、未耕地の多い地方において、より[#「より」に傍点]高価であるとは、されていない。英国及びフランスは、現在よりも中世の方がより[#「より」に傍点]不完全に耕作されていた。両国は遥かにより[#「より」に傍点]少い粗生生産物を生産していた。それにもかかわらず、吾々が他の諸物の価値との比較によって判断し得るすべてから推せば、穀物はより[#「より」に傍点]高い価格では売られていなかった。生産物がより[#「より」に傍点]少なかったとしても、人口もまたそうであった。需要の弱小が供給の微弱を償っていた。』第二巻、三三八頁(編者註一)。セイ氏は、貨物の価格は労働の価格によって左右されるという意見に感銘し、そして正当に、すべての種類の慈善的施設は、人口をしからざればそうあるべき以上に増加せしめ、従って、労賃を低下せしめる所の、傾向を有つと推測しつつ、次の如く言う、『私は、英国から来る財貨の低廉なのは、一部分は、その国に存在する多くの慈善的施設に起因するものではないかと考える。』第二巻、二七七頁(編者註二)、これは、労賃が価格を左右すると主張する者にあっては、論理一貫せる意見である。
(編者註一)正確には、三三七頁、註二。
(編者註二)同頁、註一。
[#ここで字下げ終わり]
なるほど、最良の土地では、以前と同一の労働をもってなお以前と同一の生産物が得られるであろうが、しかしその価値は、肥沃度のより[#「より」に傍点]劣る土地に新しい労働及び資本を用いた者の得る報酬が減少した結果、高められるであろう。しからば、肥沃度が劣等地以上に有つ利益は決して失われず、単に耕作者または消費者から地主に移転されるに過ぎぬにもかかわらず、しかも劣等地にはより[#「より」に傍点]多くの労働が必要であり、そして吾々が粗生生産物の附加的供給を得ることが出来るのはただかかる土地からのみであるために、その生産物の比較価値は引続き永久的にその以前の水準以上にあり、かつそれをして、その生産にかかる附加的労働量を必要としない所の帽子、毛織布、靴、等々の、より[#「より」に傍点]多くと、交換せしめるであろう。
しからば粗生生産物が比較価値において騰貴する理由は、より[#「より」に傍点]多くの労働が、獲得される最後の部分の生産に用いられるからであって、地代が地主に支払われるからではない。穀物の価値は、何ら地代を支払わない所の、その等級の土地の上で、またはその部分の資本をもって、その生産に投ぜられた労働量によって左右されるのである。地代が支払われるから穀物が高いのではなくて、穀物が高いから地代が支払われるのである。従って、地主が彼らの地代の全部を抛棄しても穀価には何らの下落も起らないであろうと云われているのは、正当である。かかる方策は単にある農業者をして紳士の様な生活をすることを得しめるに過ぎず、最も生産力の少い耕作地で粗生生産物を生産するに必要な労働量を減少せしめないであろう。
(二八)地代の形で土地が剰余を産出するという故をもってする、有用なる生産物のあらゆる他の源泉以上に、土地が有つ所の、得点ほど、普通に耳にするものはない。しかも土地が最も豊富であり、最も生産的であり、かつ最も肥沃である時には、それは何らの地代も生み出さない。そしてより[#「より」に傍点]肥沃な部分の本来的生産物の一部分が地代として分離されるのは、その力が衰え、そして労働に対する報酬としてより[#「より」に傍点]少ししか産出しなくなった時においてのみである。製造業者がそれによって援助される自然力に比較すれば欠点と云わるべき所の、土地のこの性質が、その特殊なる優越をなすものとして指摘され来っているのは、奇妙なことである。もし空気や水や蒸気の弾力性や気圧が種々なる品質を有っているならば、もしそれらは占有され得、かつ各品質は単に相当の分量に存在するに過ぎないならば、それらは、土地と同じく、逐次劣等の品質のものが使用されるに至るにつれて、賃料を与えるであろう。より[#「より」に傍点]劣れる品質のものが用いられるごとに、その製造にそれらが用いられた貨物の価値は、等量の労働の生産力がより[#「より」に傍点]小になるから、騰貴するであろう。人間は額に汗してより[#「より」に傍点]多くをなし、自然はより[#「より」に傍点]少ししかなさないであろう。そして土地は、その力が限られているという点について他に優越しはしなくなるであろう。
もし土地が地代という形で与える所の剰余生産物が一長所であるならば、年々、新しく造られた機械が旧いものよりも能率がより[#「より」に傍点]小になることが望ましい訳である。けだし、それは疑いもなく、啻にその機械のみならず更に王国内のあらゆる他の機械によって製造される財貨に、より[#「より」に傍点]大なる交換価値を与え、そして最も生産的な機械を所有するすべての者に賃料《レント》が支払われるであろうからである(註)。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
(註)アダム・スミスは曰く、『農業においてもまた自然は人間と共に労働する。そしてその労働は何らの出費を要しないけれども、しかしその生産物は最も高価な労働者の生産物と同様にその価値を有つものである。』自然の労働が支払を受けるのはそれが多くをなすからではなく、それが少ししかしないからである。自然がその賜物を惜しむに比例して、それはその仕事に対してより[#「より」に傍点]大なる価格を要求する。それが寛大に多くを与える場合には、それは常に無償で働く。『農業において使用される労働家畜は、啻に、製造業における労働者の如く、彼ら自身の消費する所に、または彼らを用いる資本に、等しい価値を、その所有者の利潤と共に、再生産するのみならず、更に遥かにより[#「より」に傍点]大なる価値を再生産する。農業者の資本とそのすべての利潤以上に、彼らは規則正しく地主の地代の再生産を齎す。この地代は、その使用を地主が農業者に貸与する所の自然の力の生産物と考えられ得よう。その大小は、かかる力の想定された大いさにより、または土地
前へ
次へ
全70ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
リカードウ デイヴィッド の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング