フ想定された自然のまたは改良された肥沃度による。人間のなせる所と看做され得るすべての物を控除または補償した後に残るものが、自然のなせる所である。それは総生産物の四分の一以下であることは稀でありしばしばその三分の一以上である。製造業において用いられる等量の生産的労働は、決してかくも大なる再生産を齎すことは出来ない。製造業においては自然は何事もなさず[#「製造業においては自然は何事もなさず」に傍点]、人間がすべてをなす[#「人間がすべてをなす」に傍点]。そして再生産は常に、それを齎す因子の力に比例しなければならない。従って農業において用いられる資本は啻に製造業において用いられるいかなる等量の資本よりもより[#「より」に傍点]大なる生産的労働の分量を動かすのみならず、更にまたそれが用いる生産的労働の分量に比例して、それはその国の土地及び労働の年々の生産物に、その住民の真実の[#「真実の」に傍点]富及び収入に、遥かにより[#「より」に傍点]大なる価値を附加する。資本が使用され得るすべての方法の中で、それは社会にとり遥かに最も有利なものである。』第二編、第五頁。(訳者註――キャナン版、第一巻、三四三――三四四頁、傍点はリカアドウの施せるもの。)
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自然は製造業においては人間に対して何事もなさないであろうか? 吾々の機械を動かし、かつ航海を助ける所の風や水の力は、何物でもないか? 吾々をして最も巨大な機関を動かし得せしめる気圧や蒸気の弾力性――それは自然の賜物ではないか? 金属を軟かにしまた熔解する際の可燃焼物の有つ諸結果や、染色及び醗酵の過程における大気の分解力の有つ諸結果については言わぬとしても。製造業において自然が人間にその補助を与えず、かつまたそれを寛大に無償で与えないという製造業は、これを挙げることが出来ない。
私が右にアダム・スミスから写し取った章句を論評するに当って、ビウキャナン氏は次の如く云う、『私は、第四巻に含まれている生産的労働及び不生産的労働に関する諸観察において、農業は他のいかなる種類の産業よりも国民的貯財に対し附加する所より[#「より」に傍点]大なるものではないことを、証明せんと努力した。地代の再生産をもって社会に対する極めて大なる利益であると論ずるに当って、スミス博士は、地代は高き価格の結果であり、かつ地主がかくの如くして利得する所は彼が社会全体を犠牲にして利得しているのであることを、考えていない。地代の再生産によって社会が絶対的に利得する所は何もない。一階級が他の階級を犠牲にして利得しているに過ぎない。自然は耕作過程において人間の勤労と協力する故に、農業は生産物を、従って地代を、生むという提議は、単なる空想である。地代が得られるのは、生産物からではなくて、その生産物が売られる価格からである。そしてこの価格が得られるのは、自然が生産において援助するからではなく、それが消費を生産に適合せしめる所の価格であるからである。』(編者註――ビウキャナン版『諸国民の富』第二巻、五五頁。)
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(二九)地代の騰貴は常に、増加しつつある国富の結果であり、その増加せる人口に対する食物供給の困難の結果である。それは富の徴候ではあるが、しかし決してその原因ではない。けだし富はしばしば、地代が静止的であるかまたは低下しつつある間にも、最も速かに増加するからである。地代は、自由に処分し得る土地の生産力が減退する際に、最も速かに増加する。富は、自由に処分し得る土地が最も肥沃であり、輸入が制限されること最も少く、かつ農業上の改良によって労働量の比較的増加なくして生産物が増加され得、従って地代の増進が遅々たる所の、国において、最も速かに増加するのである。
もし穀物の高き価格が、地代の結果であって原因でないとするならば、価格は地代の高低に従って比例的に影響され、そして地代は価格の一構成部分となるであろう。しかし、最大量の労働をもって生産された穀物が穀物の価格の支配者であり、そして地代は、毫もその価格の一構成部分として入り込まず、また入り込み得ないのである(註)。従ってアダム・スミスが、貨物の交換価値を左右した本来的規則、すなわち、それによって貨物が生産された比較的労働量が、土地の占有と地代の支払とによって、いやしくも変更され得る、と想像したのは、正確であり得ない。粗生原料品は大抵の貨物の構成に参加するが、しかし、その粗生原料品の価値は、穀物と同様に、最後に土地に使用されかつ地代を支払わない所の資本部分の生産性によって、左右され、従って地代は貨物の価格の一構成部分ではないのである。
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(註)この原理を明瞭に理解することは、私の信ずる所によれば、経済学にとって最も重要なことである。
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(三〇)吾々は今まで、その土地が種々なる生産力を有っている国において、富及び人口の自然的増進が地代に及ぼす結果を、考察し来った。そして吾々は、より[#「より」に傍点]少い生産上の報酬をもって土地上に用いられることが必要となる所の、附加的資本部分が投ぜられるごとに、地代は騰貴するであろうということを見た。同一の原理よりして、土地に同一額の資本を用いることを不必要ならしめるべき、従って最後に用いられる部分をより[#「より」に傍点]生産的ならしめるべき、社会における何らかの事情は、地代を低めるであろう、ということになる。労働の支持に向けられた基金を大いに減少すべき一国の資本の大減少は、当然この結果を有つであろう。人口は、それを雇うべき基金によって自らを調整し、従って常に資本の増減と共に増減する。従って資本のあらゆる減少は必然的に、穀物に対する有効需要の減少、価格の下落、及び耕作の減少を伴う。資本の蓄積が地代を引上げるのとは反対の順序において、その減少は地代を低めるであろう。より[#「より」に傍点]生産的ならざる質の土地は順次に抛棄され、生産物の交換価値は下落し、そしてより[#「より」に傍点]優良な質の土地が最後に耕作される土地となり、かつ地代を支払わない土地となるであろう。
(三一)しかしながら、一国の富及び人口が増加される時にも、もしその増加が、より[#「より」に傍点]痩せた土地を耕作するの必要を減少するか、またはより[#「より」に傍点]肥沃な部分の耕作に同一量の資本を投下する必要を減少するという、前と同一の結果を齎す如き、かかる顕著な農業上の進歩を伴うならば、同一の結果が生み出されるであろう。
もし一定の人口を支持するに一百万クヲタアの穀物が必要であり、そしてそれは第一等地、第二等地、第三等地において得られるとし、またもし後に一改良が発見され、それによってそれが、第三等地を用いずに第一等地及び第二等地で得られ得るに至ったとすれば、その直接の結果が地代の下落でなければならぬことは明かである。けだしこの際には、第三等地ではなく第二等地が、何らの地代をも支払わずに耕作されるであろうし、そして第一等地の地代は、第三等地と第一等地との生産物の差違ではなくして、単に第二等地と第一等地との差違に過ぎないであろうからである。人口が同一でありそしてそれが増加しなければ、より[#「より」に傍点]以上の穀物量に対する需要はあり得ない。第三等地に用いられていた資本及び労働は、社会にとり好ましい他の貨物の生産に向けられるであろうし、そして他の貨物を造る粗生原料品が、資本を地上により[#「より」に傍点]不利に用いるにあらざれば獲得され得ない場合の他は、――この場合には、第三等地が再び耕作されなければならぬ――地代を引上げるという結果を有ち得ないのである。
農業上の改良の結果、またはむしろその生産により[#「より」に傍点]少い労働が投ぜられるに至った結果たる、粗生生産物の相対価格における下落は、当然に蓄積の増加に導くべきことは、疑いもなく真実である、けだし資本の利潤は大いに増加されるであろうから。この蓄積は、労働に対する需要の増加に、労賃の騰貴に、人口の増加に、粗生生産物に対する需要の増大に、そして耕作の拡張に、導くであろう。しかしながら、地代が以前の高さになるのは、人口の増加の後のことであり、換言すれば第三等地が耕作されるに至って後のことである。それまでには、地代の積極的減少を伴う所の長い時期が経過していることであろう。
しかし、農業上の改良には二種ある、すなわち、土地の生産力を増加するものと、吾々をして機械の改良によってより[#「より」に傍点]少い労働でその生産物を獲得し得しめるものとである。これら両者は、共に粗生生産物の価格の下落に導く、これら両者は共に地代に影響を及ぼさない。もしそれらが粗生生産物の価格の下落を惹起さないならばそれは改良ではないであろう、けだし、以前に一貨物を生産するに要した労働量を減少することが、改良の本質であり、そしてこの減少はその価格または相対価値の下落なくしては起り得ないからである。
土地の生産力を増加した改良とは、より[#「より」に傍点]巧妙な輪作、あるいは肥料のより[#「より」に傍点]良き選択というが如きものである。これらの改良は、絶対的に吾々をして、より[#「より」に傍点]少量の土地から同一の生産物を獲得し得せしめる。もし蕪菁《かぶら》の栽培法の導入によって、私が、私の穀物の生産と並んで私の羊を飼い得るならば、羊が以前に飼われていた土地は不要に帰し、そして同一量の粗生生産物がより[#「より」に傍点]少量の土地を用いて得られることになる。もし私が、それによって私が一片の土地をして二〇%だけより[#「より」に傍点]多くの穀物を生産せしめ得るようにさせる所の、肥料を発見するならば、私は資本の少くとも一部分を、私の農場の最も不生産的な部分から引去り得よう。しかし私が前に観察したるが如くに、この際地代を低減するために土地の耕作を止める必要はない。この結果を齎すためには、同一の土地に、その齎す所の異る資本の諸部分が、逐次投ぜられており、そしてその齎す所の最小なる部分が引去られるだけで、十分である。もし蕪菁耕作の導入により、またはより[#「より」に傍点]有効な肥料の使用によって、私が、より[#「より」に傍点]少量の資本をもって、また逐次投ぜられる資本の諸部分の生産力の間の差違を紊《みだ》すことなくして、同一の生産物を獲得し得るならば、私は地代を低めるであろう。けだし別のより[#「より」に傍点]生産的な部分が、その点からあらゆる他の部分が計算されるであろう所の、標準たるべき部分となるであろうからである。もし例えば、逐次投下される資本が、一〇〇、九〇、八〇、七〇を生産するならば、私がこれらの四部分を用いる間は、私の地代は六〇であり、すなわち、
[#ここから2字下げ]
七〇と一〇〇との差===三〇
七〇と九〇との差 ===二〇
七〇と八〇との差 ===一〇
―――――
六〇
[#ここで字下げ終わり]
}に等しく、[#「}に等しく、」は前の5行にわたる]
他方生産物は三四〇、すなわち、
[#ここから5字下げ]
一〇〇
九〇
八〇
七〇
――――
三四〇
[#ここで字下げ終わり]
}であろう、[#「}であろう、」は前の6行にわたる」]
そして私がこれらの部分を用いている間は、その各部分の生産物が等しい増加をなしても、地代は依然として同一であろう。もし生産物が、一〇〇、九〇、八〇、七〇ではなく、一二五、一一五、一〇五、九五に増加されたとしても、地代は依然として六〇であり、すなわち、
[#ここから2字下げ]
九五と一二五との差===三〇
九五と一一五との差===二〇
九五と一〇五との差===一〇
―――――
六〇
[#ここで字下げ終わり]
}に等しく、[#「}に等しく、」は前の5行にわたる]
他方生産物は四四〇に、すなわ
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