vに傍点]少い価値が労働者と地主との階級に帰属しより[#「より」に傍点]多くの価値が資本家階級に帰属したことを見出すべきであろうからである。例えば吾々は、貨物の絶対量は倍加したにもかかわらず、それが正確に以前と同一量の労働の生産物であることを見出すであろう。生産された百|宛《オンス》の帽子、上衣、及び百クヲタアの穀物のうち、
[#ここから3字下げ]
労働者が以前に得た所は…………………………二五
地主は………………………………………………二五
そして資本家は……………………………………五〇
――――――
一〇〇
[#ここで字下げ終わり]
であり、そしてもしこれらの貨物の分量が二倍となった後に、各一〇〇のうち、
[#ここから3字下げ]
労働者の得る所はわずかに………………………二二
地主は………………………………………………二二
そして資本家は……………………………………五六
――――――
一〇〇
[#ここで字下げ終わり]
であるとすれば、その場合に私は、貨物が豊富な結果労働者及び地主に支払われる分量は二五対四四の比例で増加したであろうけれども、労賃及び地代は下落し利潤は騰貴したと言うべきである。労賃は、その真実価値によって、すなわちその生産に用いられる労働及び資本の分量によって、測られるべきであり、上衣か帽子か貨幣か穀物かの形におけるその名目価値によって測られるべきではない。私が今仮定した事情の下においては、貨物はその以前の価値の半分に下落したであろうし、そしてもし貨幣が変動しなかったならば、その以前の価格の半分にも下落したであろう。しからばもし、価値において変化しなかったこの媒介物で労働者の労賃が下落したことが見出されるならば、彼れの以前の労賃よりもより[#「より」に傍点]多くの廉価な貨物を与えるであろうからといって、それはやはり真実の下落であろう。
貨幣の価値の変動は、いかにそれが大であろうとも、利潤の率には何らの異動も生じない、けだし製造業者の財が一、〇〇〇|磅《ポンド》|磅《ポンド》から二、〇〇〇|磅《ポンド》に、すなわち一〇〇%騰貴すると仮定しても、もし彼れの資本、――貨幣の変動は生産物の価値に及ぼすと同じだけの影響をそれに及ぼすが、――すなわち彼れの機械、建物、及び在庫品もまた一〇〇%騰貴するならば彼れの利潤率は同一であり、彼はその国の労働の生産物の同一の分量を支配し得べく、それ以上は支配し得ないであろう。
もし一定の価値の資本をもって、彼が、労働の節約によって、生産物の分量を倍加し得、そしてそれがその以前の価格の半分に下落しても、それは、それを生産した資本に対し以前と同一の比例を保ち、従って利潤は依然同一率にあるであろう。
もし、彼が同一の資本を用いて生産物の分量を倍加すると同時に、貨幣の価値が何らかの出来事によって半分に下落するならば、生産物は以前の二倍で売れるであろう。しかしその生産に用いられる資本もまた、その以前の貨幣価値の二倍となるであろう。従ってこの場合においてもまた、生産物の価値は、資本の価値に対し以前と同一の比例を保つであろう。そして生産物が倍加されたにもかかわらず、地代、労賃及び利潤はただ、この二倍の生産物がこれを分つ三階級の間に分割される比例が変動するにつれて、変動するに過ぎないであろう。
[#改ページ]
第二章 地代について
(二四)しかしながら、土地の占有とその結果たる地代の発生とが、生産に必要な労働量とは無関係に、貨物の相対価値に変動を惹起すか否か、の問題が残っている。問題のこの部分を理解せんがためには、吾々は、地代の性質、及びその騰落を左右する法則を、研究しなければならない。
地代とは、土地の生産物の中、土壌の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して地主に支払われる所の部分である。
しかしながら、それはしばしば資本の利子及び利潤と混同されている。そして、通俗の用語では、この言葉は、農業者によってその地主に年々支払われるものには、その何たるを問わず適用されている。もし、同一の面積を有ちかつ同一の自然的肥沃度を有つ二つの相隣れる農場のうち、一方は、農耕用建物について一切の利便を有ち、更にその上に適当に灌漑され、施肥され、そして都合よく籬《まがき》や柵や壁で区分されているが、しかるに他方は、これらの利便は何も有たないとすれば、一方の使用に対しては、他方の使用に対してよりも、より[#「より」に傍点]多くの報酬が当然支払われるであろう。しかも双方の場合にこの報酬は地代と呼ばれるであろう。しかし次のことは明かである、すなわち改良された農場に対して年々支払わるべき貨幣の一部分のみが、土壌の本来的なかつ不可壊的な力に対して与えられたものであり、その他の部分は、地質の改良のためにまた生産物を保全し貯蔵するに必要な建物の建造のために用いられた資本の使用に対して支払われたものであろう。アダム・スミスは時に私がそれに限定せんと欲する厳格な意味における地代について論じているが、しかしこの言葉が通常使用されている通俗の意味におけるそれを論ずることがより[#「より」に傍点]多い。彼は吾々に、ヨオロッパの南方諸国における木材に対する需要とその結果たる高き価格が、以前には地代を生じ得なかったノルウェイにおける森林に対して支払わるべき地代を齎した、と語っている。しかしながら、彼がかくの如く地代と呼ぶ所のものを支払った人は、その時地上に生長しているこの価値多い貨物を考慮してそれを支払ったのであり、そして彼は木材の売却によって、現実に利潤と共にそれを囘収したことは、明白ではないか? もし実際木材が伐り去られた後に、未来の需要を考えて木材またはその他の生産物を栽培する目的をもって、土地の使用に対してある報償が地主に支払われるならば、かかる報償は、土地の生産力に対して支払われるのであるから、正当に地代と呼ばれ得よう。しかし、アダム・スミスによって述べられている場合においては、報償は木材を伐り去りかつ売却する自由に対して支払われたのであって、それを栽培するの自由に対して支払われたのではない。彼は炭鉱の地代及び採石場の地代についても論じているが、これに対しても同一の議論が当てはまる、――すなわち鉱山または採石場に対し与えられる報償は、それから採掘され得る石炭または石材の価値に対して支払われるのであって、土地の本来的なかつ不可壊的な力とは何らの関係もない。これは、地代及び利潤に関する研究において極めて重要な区別である。けだし地代の増進を左右する所の法則は、利潤の増進を左右する法則とは大いに異っており、同一の方向に作用することは稀であることが、見出されるからである。あらゆる進歩せる国においては、地主に年々支払われるものは、地代及び利潤という両性質を兼ね有しているから、時には対立する原因の結果によって静止しており、また他の時には、これらの原因の一方または他方が優勢を占めるに従って増進または減退する。かくて本書の以下において、私が土地の地代を論ずる時は常に、土地の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して土地の所有者に支払われる報償について論じているものと、了解されんことを希望する。
(二五)そこには豊饒にして肥沃な土地が豊富にあり、現実の人口を支えるためにはその極めて小部分が耕作される必要があるに過ぎぬか、または実にそれがその人口の自由にし得る資本で耕作され得るという所の、一国の最初の植民の際には、地代は無いであろう。けだし未だ占有されておらず、従って、それを耕さんと欲する何人もこれを自由に処分し得る所の、土地が豊富な量にある時には、土地の使用に対して何人も支払をしないであろうからである。
供給及び需要の普通の原理によって、空気や水の使用に対し、または無限に存在するある他の自然の賜物に対し、何物も支払われない訳を説明したと同一の理由で、かかる土地に対しては地代は支払われ得ないであろう。一定量の原料と、気圧や蒸気の伸縮力の助けによって、機関は仕事をし、そして極めて大きな程度に人間の労働を節約するであろう。しかしこれらの自然的補助物の使用に対してはいかなる料金も課せられない、それはけだしそれらが無尽蔵でありかつ万人の自由に為し得る所であるからである。同様に、醸造家や蒸酒家や染物屋は、彼らの貨物の生産のために、空気や水を不断に使用している。しかしその供給が無限であるから、それらのものは何らの価格も有たない(註)。もしすべての土地が同一の性質を有つならば、もしその量が無限であり、地質が一様であるならば、それが特殊な位置の利便を有たない限り、その使用に対しては、何らの料金も課せられ得ないであろう。しからば、地代がその使用に対し常に支払われるのは、ただ、土地の量が無限でなくそして地質が一様でないからであり、そして人口の増加につれて劣等の質または利便のより[#「より」に傍点]少い土地が耕作されるようになるからに他ならない。社会の進歩につれて、第二等の肥沃度の土地が耕作されるに至る時は、地代は直ちに第一等地に発生し、そしてその地代の額は、これら二つの土地部分の質の差違に依存するであろう。
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(註)『土地は、吾々の既に見た如く、生産力を有つ唯一の自然的因子ではない。しかしそれは一群の人が他人を排して我が物とすることが出来、その結果として、彼らがその利益を占有することが出来る、唯一のまたはほとんど唯一の、自然的因子である。川や海の水もまた、吾々の機械を運転せしめ、吾々の船舶を浮べ、吾々の魚を養う力によって、生産力を有っている。吾々の風車を廻転させる風やまた太陽の熱でさえ、吾々のために働くものである。しかし幸にして、何人も「風と太陽とは私の物であり、従ってそれらが与える仕事に対して支払を得なければならない、」と言い得る者は未だなかった。』――ジー・セイ著、経済学、第二巻、一二四頁。
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第三等地が耕作されるに至る時には、地代は直ちに第二等地に発生し、そしてそれは以前の如くにそれらの生産力によって左右される。同時に第一等地の地代は騰貴するであろう、けだしそれは常に、一定量の資本及び労働をもって両者が産出する生産物の差違だけ、第二等地の地代よりもより[#「より」に傍点]多くなければならぬからである。人口が増加するごとに、――これは一国をして、その食物の供給を増加し得しめるためにより[#「より」に傍点]劣等の土地に頼らざるを得ざらしめるであろうが、――地代はすべてのより[#「より」に傍点]肥沃な土地において騰貴するであろう。
かくて、土地――第一等地、第二等地、第三等地――が、等しい資本及び労働を用いて、小麦一〇〇、九〇、及び八〇クヲタアの純生産物を生産すると仮定せよ。人口に比較して肥沃な土地が豊富にあり、従って、第一等地の耕作を必要とするのみで足る所の、新しい国においては、総純生産物は耕作者に帰属し、そしてそれは彼が前払した資本の利潤たるものであろう。人口が、第二等地――それからは、労働者を支持した後に九〇クヲタアが獲得され得るに過ぎぬ、――の耕作を必要ならしめるほどに大いに増加するや否や、地代は第一等地に発生するであろう。けだしそうならなければ農業資本に対し二つの利潤率がなければならぬことになるか、あるいはある他の目的のために十クヲタアがまたは十クヲタアの価値が、第一等地の生産物から引去られなければならぬことになるからである。第一等地を、土地所有者が耕作しようとまたはある他の人が耕作しようと、この十クヲタアは等しく地代を形造るであろう。けだし第二等地の耕作者は地代として十クヲタアを支払って第一等地を耕作しようと、または何ら地代を支払わず引続き第二等地を耕作しようと、その資本をもって同一の結果を得るであろうからである。
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