,恰度 Rutherford がα粒子の散亂に關する實驗結果からして,實驗的に長岡博士の模型即ち核原子の模型に到達し,これを提唱した直後であつた.此模型は周知の通り今日の原子構造論の礎石を置いたもので,惹いては現下の元素の人工變換に導いて行つたのである.今日から見ればこれは大して破天荒の着想とも考へられないかも知れないが,それは後からの話で,其頃物理學界を風靡して居た J. J. Thomson の模型,即ち陽電氣の雲塊の中に電子が浮かんで居るものに比べると,全く新しい洞察であつた.
此核原子の模型によつて放射性元素の問題にも色々の曙光を認めた.此點に就ても先鞭を着けたのは Bohr であつたが,實をいふと Bohr の立場は更に高い所にあつた.即ち此模型の眞實性を確信し,これにより原子,分子の構造を明かにし,一般的物性の依て來る處を説明しようとするのであつて,放射性元素について其當時問題となつた事は其一端に過ぎなかつた.從つて滯英中これ等のことに就いては何の發表をもしないで歸國した.
丁抹に歸つた冬即ち1912−1913年の冬の學期には,講師として講義をし乍ら此問題の研究に沒頭し
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