の Rutherford の所に行つたのである.
Cambridge では,帶電粒子が物質の通過に際して受ける速度の減衰について,理論的研究を行つた (4)[#「(4)」は上付き小文字].Bohr は2年後に再び此問題を取り上げて研究して居る (14)[#「(14)」は上付き小文字].これ等の結果はα粒子やβ粒子の物質通過に際するエネルギー損失の理論として今日に至る迄尊重せられて居る.そして20年後の今日になつて,量子力學の立場から Bethe や Bloch によつて研究せられたが,其結果は少くとも非相對性理論の範圍に於ては,大體に於て Bohr の結果と合致することが知れた.これは Bohr の勘の好さを示す一例であつて,古典論を以て量子力學の結果を豫知し得たものと云つて好いであらう.此事は次に述べる原子構造の理論に就いても同樣に云へることである.
Cambridge を去つて Bohr は Manchester の Rutherford の所に遊學した.ここで Rutherford を知つたことは,Bohr の一生を支配する重大な意義をもつ事であつた.Rutherford
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