ウ用の論爭を避けて新しい見方を教へるといふに止つて居る.然しこれ等類推の裏には,更に深く且つ廣い共通の基礎が横はつて居るのかも知れない.これは恐らく遠い將來の研究に俟つべき問題であらう.
それは兎も角,Bohr は生命と今日の原子物理學的方法とが互に相補の關係にあること,從つて生命は物理學的には解けぬ實在として取扱ふべきものであること,恰も Planck の作用量子が古典論では解けぬ實在として扱はれると同樣であることを先づ指摘した.
心理學に於ても同樣の事態が存在する.例へば自己の心理現象を觀察することは,その心理現象その物とは互に相補の關係にあつて,觀察のために現象が變化する.自由意志の存在が因果的に説明出來ないのは,やはり自己の意思の觀察に於て,既述の通り主觀と客觀とが互に作用して分けられないからであつて,これは恰度量子論に於て凡ての量が同時に觀測出來ないから因果的の記述が出來ないのと同樣である.又生物學に於て,生命現象を原子物理學的に記述出來ないのも類似の事態によるのであつて,生物體は新陳代謝が行はれて居る爲に,これを原子物理學的に規定することが出來ない.即ちどれだけの原子が其生物に屬し,又どれだけが生物體外のものであるかが決められない.規定することが出來なければ原子物理學を適用する手掛りを失ふわけである.
又思想と感情,理性と本能といふ對立的心理現象の存在も互に相補の關係にあつて,一方の存在する所他方が隱れて了ふのは,自己觀察の特性の然らしむる所である.
吾人の用ふる言葉そのものも,その分析と適用とが相補關係にあつて,言葉を分析し定義すると使へなくなつて了ふ.これを定義しないで漠然たる所に適用の餘地が出來てくるのである.又事物の形式と内容とも相補の關係にあつて,内容なくして形式はないが,内容を餘り分析すると形式は無くなつて了ふ.尚此形式と内容とについては Bohr は次のやうに云つて居る.
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There is no content which is not framed in a form;
there is no form which is not too narrow, if one
does not limit its application.
[#ここで字下げ終わり]
そして内容の増大による不調和は,更に廣い見地から調和
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