驍ニ共に,逆に此結果から未發見の元素の性質が豫告し得るやうになつた.Hevesy,Coster の72番の元素 Hf の發見は,これに基いてジルコン鑛石の中を探索した結果であつて,Bohr 理論の大きな應用の一つである.Bohr は1922年12月のノーベル授賞式の講演に於て,この發見を最初に發表したのであつた.これより先佛國の Urbain は此72番の元素を稀土類の中に發見したと云ひ,これを Celtium と名付けて居たのであるが,Bohr の理論によれば,之は稀土類に屬さぬものであることが明かであつて,此發見に就いては Urbain と Hevesy,Coster との間に論爭を生じたが,今日では Celtium なる名は消滅したやうである.
 Bohr の原子構造論は其後 Main−Smith 並に Stoner によつて多少改められたが,ともかく今日の量子力學と Pauli の原理とからして得られる結果と少しも異る所はない.今日から見ると對應原理を唯一の信條として,よくも此處迄漕ぎ付け得られたものと思はれる.これも Bohr の勘の好さによるのである.
 此勘の好いといふことが何であるかは,言葉その物の本來の意味の示すやうに,これを解説することは出來ないが,人が一つの問題に沒入すると,これに同化融合し,人と自然とが一體になり,自然の根柢を支配する深い法則に觸れるやうになるのではないかといふやうな氣がする.これは Bohr 教授に接したものの受ける印象ではなからうか.
 Bohr の原子構造の研究が完成した頃から,對應原理を指針とする古典量子論の無力さが次第に表面に現はれて來た.殊に光の波動説と粒子説(光量子説)との矛盾が,人に甚だしい不滿の念を抱かせた.此點に橋をかけるために Bohr−Kramers−Slater の理論が出た (37)(38)[#「(37)(38)」は上付き小文字].これはエネルギー,運動量の不滅法則が素過程には行はれないで,ただ統計的にのみ成り立つものであるといふ考へを用ひ,波動と粒子とを結ぶ試みであつた.此説は Geiger−Bothe,Compton−Simons の實驗によつて誤であることが明かにせられ,Bohr 自身も既に其前に熱力學的考察からこれは誤つて居ることを覺つて居た.今日から見ればこれは明白であるが當時としてはそん
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