理學者は和蘭の Kramers で,助手並に講師として10年近くも滯在したやうである.Kramers が Utrecht に去つた後任は Heisenberg であつたが,其任期は2箇年位であつたらう.Heisenberg が Leipzig に行つた後を O. Klein が繼ぎ,3〜4年の後 Klein が Stockholm に去つて暫くは空席であつたのを,〔Mo/ller〕[#「〔Mo/ller〕」は底本では「〔Mo'ller〕」]が引き繼いで今日に至つて居る.此外に Rosenfeld も既に數年間助手として滯在して居るやうである.之等の助手の中丁抹人は〔Mo/ller〕[#「〔Mo/ller〕」は底本では「〔Mo'ller〕」]1人で,他は皆外國人である.此研究所の空氣が如何に cosmopolitan であるかが解るであらう.又 Hevesy は Manchester 以來 Bohr の親友であつて,中途獨逸の Freiburg に教授として赴任して居た數年を除いては,殆ど最初から此研究所で研究を行ひ,後に述べる元素 Hf の發見後,其化學的研究並に分離を行つた.人工放射能の發見と共に今日では專ら生物學の研究に沒頭し,大切な仕事を出して居る.
此外 Pauli, Dirac, Jordan, Slater, Urey(重水發見者), Gamow, Heitler, Nordheim, Hund, Bloch, Goudsmit, 〔Weizsa:cker〕, Coster, Kopfermann 其他今日物理學界に名を知られて居る人の大半は,長いか短いか此研究所に居つた經驗をもつて居るのである.從つて此研究所は20世紀前半の物理學史上,直接間接に不朽の貢獻をしたものであつて,誰か此研究所の歴史を書き殘して置くことは後日の爲大切なことであらう思はれる.
1931年に此研究所は創立10年記念を祝つた.其際此研究所から發表せられた全部の論文の別刷を集めて一冊とし,これを Bohr 教授に贈呈した.論文の數は約275あつたといふことである.此目録は雜誌‘Fysisk Tidsskrift’(1931) に出て居る.
其後此研究所も次第に手狹くなつて居たが,1923年に米國の Rockfeller Foundation から4萬弗援助を得て擴張を行つた.敷地
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