ohr は Christiansen の後をついだ Knudsen の後任として大學物理學科の助教授(Docent)となつた.此講座では醫學部の學生に物理學初歩を教へるのであつたが,之はあまり有難い仕事ではなかつた.然し夫は1年丈で濟んだ.といふのは1914年には Manchester の Rutherford の所へ,物理の講師として呼ばれたからである.當時歐州大戰が勃發したが同年10月には英國に渡り,2年間 Manchester に滯在した.其間1915年には前記スペクトルと原子構造の研究の繼續結果を發表した (11)(13)[#「(11)(13)」は上付き小文字].
 1916年には Copenhagen 大學に Bohr の爲に理論物理の講座が設けられ其教授に任ぜられた.そして此講座にはやはり前記の醫學部學生への講義が付き纏つて居たのであるが,1916年夏歸國するや代講者を置くことを許され,又1918年には別に此講義の講師が置かれることになつて,全く惡縁を切ることになつた.
 Bohr は就任後直ちに,此講座に附屬する理論物理學研究所の建設を大學當局に提議した.其内容は圖書室,講義室並に理論物理學研究に必要な設備,又理論物理學研究結果の檢討並に理論發展の手引きをすべき,實驗研究を行ふための器械裝置及び工作場を設けることであつた.此建議は大學當局,政府,議會を簡單に通過した.それは此敷地が有志者の寄附(8萬クローネ即ち現在の8萬圓)によつて,市の東北 Blegdamsvej に購入することが決つたからである.
 此建築は1918−1919年の冬に始められ,1921年3月3日大學理論物理學研究所(Universitetets Institute for teoretisk Fysik)として開所せられた.此建物は約15間×7間位で,半地下室は物理實驗室及び工作場に用ひられ,その上の階が講義室,圖書室並に理論の方の人の居室,及び化學實驗室になつて居り,二階は Bohr 教授一家の住居となつて居た.此研究所の完成により外國の若い理論並に實驗物理學者が次から次へと集つて來た.我國の學者で此處で研究した人も10人近くある.Bohr 教授は日本の留學生に對しては非常に好意を寄せられ,皆愉快に研究に沒頭することが出來た*[#「*」は上付き小文字].
 此研究所に最初に來た物
前へ 次へ
全32ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
仁科 芳雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング