った。世の中にはさまざまな生活があり、さまざまな快楽《たのしみ》があるなどと云うことは、夢にも考えてみたことはなく、現在の自分の生活、現在の自分の快楽に満足しきっている彼は、世にも幸福な人間だった。彼はこうした荒寥たる国に生れ、ここで育ったのである。彼にとっては、こうして自分の生れた家で暮していることが、心にも体にも、いちばん愉しいことだった。世の中の人間が変った出来事を望んだり、次から次へ新らしい快楽を求めたりする心持が、彼にはどうしても解らなかった。世間には、四季を通じて同じ場所にいることを、何か不自然なことのように思っている人間がある。どうしてそんなことを考えるのか、彼には全くそういう人間の気が知れなかった。春夏秋冬《はるなつあきふゆ》、この四つの季節は、土地を変えることによって、それぞれ新らしい変った悦びを人間に齎《もたら》すものだと云うことが、彼にはどうしても呑み込めなかったらしい。
だから彼女には返事が出来なかったのである。なんにも云わずに、ただ泪を一生懸命に拭いた。なんと云えばいいのか、彼女には分らなかった。やっとの思いで、頻りに云い澱《よど》みながらこう云った。
「あ
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