にあらずして、実権を有する首領ならざる可からず※[#白ゴマ、1−3−29]実権ある首領とは、則ち党員を同化し得るの首領を謂ふ、同化の結果は、首領の専制と為り、党員の盲従と為りて主権首領に帰す※[#白ゴマ、1−3−29]則ち形式上の統一と全く其根本的意義を異にするものなり※[#白ゴマ、1−3−29]英国政党内閣の妙処は、実に首領専制、党員盲従の慣例能く行はるゝが為めならずや。
されど此慣例は党規を以て定む可からず、又首領と党員との約束に依て成立す可からず※[#白ゴマ、1−3−29]唯だ一大同化力ある人物ありて、自然に党員を服従せしめ、以て自然に全党を左右するの実権を握るに在るのみ、大隈伯にして果して憲政党を同化するの力量あらむか、必ずしも進歩自由両派の旧形依然たるを憂へず※[#白ゴマ、1−3−29]必ずしも両派の嫉妬軋轢熾んなるを憂へず※[#白ゴマ、1−3−29]必らずしも異論群疑の紛々囂々たるを憂へず※[#白ゴマ、1−3−29]争ひは益々大なる可し、議論は益々騒然たる可し※[#白ゴマ、1−3−29]同化力ある人物は必らず之を統一せむ※[#白ゴマ、1−3−29]斯くの如くにして統一せられたる政党は、始めて真個の力量ある首領を発見せむ※[#白ゴマ、1−3−29]されど同化の前には淘汰を必要とす※[#白ゴマ、1−3−29]漫に大食すれば必らず胃病を生ずるを以てなり※[#白ゴマ、1−3−29]大隈伯の同化力を以てすと雖も、豈悉く憲政党を同化すべけむや※[#白ゴマ、1−3−29]之れを同化する能はずして唯だ一時の姑息を事とするときは、堅実なる政党内閣は終に見る可からず※[#白ゴマ、1−3−29]大隈内閣は遂に土崩瓦解せざる可からず、知らず大隈伯は如何にして目下の問題を解釈せむとする乎。(三十一年八月)
人民の代表者
興国の機運に乗じて、露国征伐を断行したる現内閣は、今や国民の全後援を集中して、徐ろに未来の成功を望みて前進しつゝあり。特に総理大臣桂伯と直接に和戦の票決を為したる外務大臣小村男とは、唯だ此の一挙に由りて、遽かに古今無双の英雄となりたるものゝ如し。然れども彼等は、其の展開したる大舞台の役者としては余りに陰気にして、且つ余りに沈欝なるが為に、世界は彼等以外に更に実力ある人物の国民を指導するものあるを信ぜり。而して伊藤侯の如きは今日に於ても亦最も世界の注目を惹ける日本代表者の一人たるは疑ふ可からず。事実に於ても、伊藤侯が現内閣の後見職たる威信を有し、随つて重大なる問題に対して常に勢力ある発言権を行ひつゝあるがゆゑに、総理大臣桂伯よりも、外務大臣小村男よりも、侯爵伊藤博文といへる名は、今尚ほ日本を談ずる外人の口頭より之れを逸せざるを見る。
然れども余は茲に大隈伯を紹介するの亦必らずしも無意義ならざるを思ふ。何となれば桂伯を政府の代表者とせば、若し又た伊藤侯を帝国の代表者とせば、大隈伯は人民の代表者といふべき模範的人物なればなり。伯は憲政本党の首領なり、現内閣に対しては当面の政敵たると共に、民間に於ても固より多数の反対党に依て囲繞せらる。而も其統率せる政党は、未だ議会の過半数をも占むる能はざるを以て、此の点よりいへば、伯を称して人民の代表者と為すべからざるに似たり。唯だ伯の最近生涯に於て現はれたる行動は、次第に政党首領たるの範囲を脱して、寧ろ人民の代表者たる位地に接近せむとするの傾向あるを知るざる可からず。
顧ふに政党の信用未だ高からざる日本の如き国に在ては、政党の首領たるものゝ社会的境遇は、頗る窮屈にして自由ならざるものなり。彼れは政権争奪の外、何等の目的を有せずと認めらるゝがゆゑに、政治上の関係なき社会の各階級は、動もすれば彼れと相触著せむことを避くるのみならず、彼れ自身も亦自然に之れと相隔離せざるを得ざるに至る。板垣伯の如き即ち其一人なり。自由党の全盛時代に於ては、板垣伯といへば恰も日本人民の崇拝せる自由の化身の如く見えたれども、其の一旦党籍を去りて在野の一個人となるや、伯の存在は忽ち国民の記憶より去りたるに非ずや。之れに反して大隈伯は、明治十四年改進党を組織してより、二十余年間一日の如く政党と旅進旅退したるに拘らず、其の社会的境遇は、曾て之れが為めに検束せられずして、其の住居せる早稲田の邸宅は、殆ど東京社交の中心たり。伯の門戸は常に開放せられたり。伯と社会各階級との交渉は間断なく継続せられたり。伯は政党の首領たる故を以て毫も其の社会的境遇の寂寞を感ぜざるなり。
伯が他の政党政治家と其の生涯を異にする所以は、蓋し一は其の理想の同じからざるに由れり。凡そ党派政治家は、大抵政治を狭義に解釈せり。彼等は政治を以て一種の専門技術と為し、政治団体を以て特別なる社会の一階級と為し、其の極端なる個人主義を抱けるものに在ては、社会の進歩と政治の進歩とは殆んど相関せざるものゝ如くに信ずるものなきにあらず。然るに大隈伯は、絶対的政治万能主義にして、社会に於ける一切の改良及び進歩は、唯だ善政を行ふに依て之れを庶幾し得べしと信ぜり。出世間的なる宗教すらも、大隈伯の見る所にては、亦政権の援助を借りて始めて其の健全なる発達を期し得べきものゝ如し。其の理想は斯くの如くなるがゆゑに、伯は勉めて社会の各階級と交渉し、之れをして政治と同化せしめずむば止まざらむとせり。若し政治家をして一種の専門技術家たらしめば、伯の政治に於ける趣味は必らず索然として消滅せむ。何となれば伯の頭脳は総合的にして個人的ならざればなり。一言にして伯を評すれば、伯は霊魂ある新聞紙なり。伯は善く貴族と平民との思想を聯結せり、官吏と代議士との感情を聯結せり、軍人と文学者との意見を聯結せり、銀行家も、工業家も、地主も、小作人も、若しくは相場師、貿易家、鉄道屋、海運業者も、皆伯の不思議なる概括力に依て聯結せられ、毫も伯の性格に於て相扞格すべき障害あるを見ざりき。要するに伯は社会各階級の思想感情を総合して之れに政治的著色を施し、以て其の独占権を有せむとするの人なり。
世間或は伯の耳学を笑ふ。然れども伯の伯たる所以は、其の受納力大にして偏狭なる個人的意見なき処に在り、其の社会の各階級と善く適合して、善く各種の意見を摂取し、又た善く之れを消化するの力は、之れを称して一個の天才なりといふも可なり。
故に伯は狭義に於ける政治家に非ずして、寧ろ大なる市民なり、日本人民の総代表者なり。故に又た伯にして仮りに政党首領たることを罷むることありとするも、其の大市民たる位地には何の影響する所なかるべし。伊藤侯は日本帝国の代表者として久しく外人に知らる。而も侯は伯に比すれば稍々個人的にして、其の頭脳は独自一己の圭角を有せり。侯は決して大隈伯の如く社会の各階級と適合し得るの性格を有せず。大隈伯は落々たる自由心胸《オープンハート》を有すれども、伊藤侯は快活なる間にも多少の保守的精神あり。大隈伯は好んで言論を公表し、而も之れを公表するに於て殆ど時と場所とを選まざるの傾あれども、伊藤侯は天賦の弁才あるに拘らず、之れを使用するに於て頗る謹慎なり。
されば大隈伯は、其の生活に於ても、飽まで現在的社交的にして、一点山林の気象なしと雖も、伊藤侯は江湖の詩趣を解するに於て、稍々東洋賢人の面目あり。侯は一年中の多くの時間を大磯の閑居に費やし、公務の外帝都に出づること極めて少なく、俗客と酬接するよりも、寧ろ読書に親しむの性癖あるを以て、必らずしも社交の中心たるを求めざるが如し。大隈伯は決して一日も此般の生活状態を忍ぶ能はざるなり。伯は早稲田に広大なる庭園を有し、園中には無数の珍奇なる花卉を蓄へり。特に其温室は伯の最も誇りとする所にして、室内は四季常に爛漫たる美花を以て飾れり。伯は園芸道楽を最も高尚なるものとし、屡々人に向て、花を愛するものは善人なりとの格言を繰り返へして自ら喜ぶと雖も、伯の花を愛するは、詩人の美神に※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]するが如くならず、又た聖者の自然を楽むが如くならずして、唯だ其の社交に色彩を添ゆるが為に之れを愛するのみ。若し早稲田の庭園にして一たび社交と隔離せば伯の園芸に対する趣味は、恐らくは彼れが如く濃厚ならざる可し。何となれば伯の園芸道楽は頗る共同的なればなり。故に早稲田の庭園は公開せり。且つ人は、未来の短かきを感ずれば感ずるほど、漸く静止の生活状態に傾くものなり。然れども大隈伯は其の未来の短かきを感ずるに由りて、却つて一層猛烈なる現在主義の信者と為り、勉めて其生涯をして掉尾の活動あらしめ、以て賑やかなる晩年を送らむと欲せり。故に伯の性格は、老て益々発揮し、他の元老政治家が、或は客を謝して隠棲し、或は美田を買ふて子孫の計を為すの際に在りて、伯は其の門戸を開放して、社会の各階級と盛むに自由交通を行ひ、財を吝まず、労を厭はずして、八面応酬の活動を継続せり。見よ伯の門前は日々殆ど市を為すに非ずや。何時にても三十人以上を饗するの食膳は準備しつゝありといふに非ずや。其毎年議会開会前後に於ける憲政本党員の饗応のみにても、外務大臣の夜会に劣らざる莫大の費用を抛つ上に、或は観菊の会といひ、或は早稲田大学の卒業式といひ、或は遭難紀念会といひ、孰れも毎年一定の期節に於て貴顕紳士を早稲田の庭園に招待するの慣例なれば、其の費用は亦少なからざるべし。此頃全国商業会議所聯合会の開会したるを機とし、盛宴を張て其の議員を饗応したる如き、亦甚だ勉めたりと謂ふ可し。或る好事者流あり、伯の生活の贅沢なる殆んど王侯を凌ぐの勢あるを見て、窃に財源を探究したるに、伯は遠く手を英国の倫敦市場に延ばして巧に銀塊相場に従事しつゝあるの事実を伝聞し、頗る其の大胆の財政規模に驚きたりとの説あり。惟ふに是れ或は斉東野人の説たるに過ぎざるべきも、伯の財政が世上の疑問となるを見るに就ても、亦其の生活の如何に贅沢なるやを知るに足るべし。
伯は啻に門戸を開放して、善く客に接し、人を饗するのみならず、更に善く馬車を飛ばして公私の会合に出席せり。而して伯の往く所、必らず一段の活気ありて場屋に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]せり。蓋し総べての雄弁家が皆失敗する場合に於ても、独り伯は弁論演説に於て常に成功するを以てなり。伯は沈黙を守る能はざる人にして、曾て不言実行といへる流行語を冷笑して曰く、言語あるもの必らず実行家にあらずと雖も、実行家にして不言なるものあらず。所謂る不言実行とは、意見もなく自信もなき人物の遁辞のみと。此の断定の正当なるや否やは遽に判ず可からずと雖も、伯が言論を好むの性癖あるは、此の一語に依て之れを察すべし。
従来伯は其の言論の余りに多きが為に、所謂不言実行を以て自ら任ずる政治家は、伯を称して大言放論家と為し、以て其の信用を傷けむとしたり。而かも伯は其の言論の力に依りて、反つて市民の崇拝を鍾めたり。是れ他なし、伯は最も聡慧なる市民の思想を語るの予言者なればなり。伯は好で意見を吐露すれども、敢て異を立てゝ高く自ら標置するの論客にあらずして、輿論の代言者なり。伯は個人的意見の創造者に非ずして、人民の声の写真機なり。是故に伯は精確の意義に於ける英雄に非ず。伯は偉大なる凡人なり。国民の運命を左右せむとする主我的人物に非ずして、国民の運命と倶に進退するの時代的人物なり。維新の三傑と称せられたる西郷、木戸、大久保は、各々維新の大業を以て自己の独力に依りて成したるものゝ如くに思惟したりしやも知る可からず。軍制を改革し、自治制度を制定したる山県侯は、此等の事業を以て自己の創意に出でたりと思惟するも知る可からず。又た憲法を立案したる伊藤侯は、固より議会を開きたるを以て自己の功なりとすべく、露国を征伐する現内閣員は、興国の雄図は我等の手に依て断ぜられたりと思惟すべきは無論なり。然れども大隈伯は、個人の伎倆に重きを置かざるがゆゑに、維新の大業も、法制の改良制定も、議会の開設も、大陸戦争も、其他既往三十余年間に於ける日本の発達進
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