、たとひ宮中府中の権域を法定すと雖も、之れに依りて全く韓国の寧靖を期するは容易ならずと謂ふべし、何となれば韓国に於ては、皇帝は唯一の政治家にして、曾て各大臣の補弼を藉りたることなきのみならず、常に各大臣を操縦し、若しくは之れを掣肘して内閣の統一を困難ならしめ、延て各大臣をして互ひに狐疑せしめ、互ひに皇帝の寵遇を争はしめ、其の極内閣をして亦同じく陰謀の府たらしむるに過ぎざればなり。
侯が今次の暴動を使嗾するものゝ宮中に伏在するを見て、必らず宮中を粛清すべしと誓ひ、決然として韓国に向ひたるは甚だ人意を強うするに足りき。侯の京城に入るや、直に皇帝に謁見して宦官閹竪の皇室を誤まるを痛言すること二時間に亘り、直に勅許を得て宮中粛清に著手し、一夜にして王宮の各外門は悉く警務部の日本巡査に依て守備せらるゝを見たり。宮禁令は発布せられたり、其の結果として雑輩の出入は厳禁せられ、礼式院長李容泰は禁令違反の罪に問はれて免職せられたり。是れと同時に奸魁処罰の詔勅は出でたり、皇帝は李敏和を以て人材の選択を誤り国体を損失したりとし、姜錫鎬を以て中間に在りて周旋の労を執り、共に罪状を極むとし、法部をして速に拿捕せしめ、宜しく懲犯すべしと宣へり。姜等の罪状は果して皇帝の与知せざる所なるか。皇帝は又宮中粛清に関し、詔して曰く、宮中の粛清は、屡々勅諭を下して之れを誡めたるに、久しければ輙ち懈弛して秩序を紊るの失態を見ると。知らず皇帝は曾て宮中粛清を誡めたることあるか。
此の間に於ける伊藤侯の措置は実に迅雷疾風の如くなりき。韓国の上下震慴して、殆ど其の為す所を知らざるの状想ふ可し。侯の初めに綏撫手段を採りたるもの、今や一転して圧威手段を執るの止むを得ざるに至れり。斯くの如く侯が前後全く別人に似たるの挙に出でたるは、以て侯の決心の頗る固きものあるを知るべく、侯若し此の機会に於て韓国皇帝の人格を研究せば、其の発明する所亦必らず多からん。顧ふに宮中粛清の事たる、従来日本政府が施政の改善を助言する毎に、先づ第一に之れを勧むるを例とせり。然れども皇帝自ら正うせずして宮廷の正しかるべきやうなく、特に韓国皇帝は最も夜の趣味に感ずること深きがゆゑに、魑魅魍魎は時を得顔に君側を徘徊して毒焔を煽ぐに於て、宮中の粛清何を以て行はれむや。所詮陰謀は韓国皇帝の附き物なり。雑輩の出入は之れを禁じ得べしと雖も、宮廷の陰謀は終に之れを根絶す可からず。今日宮門の警衛を如何に厳重にするとも、陰謀は外より来らずして内より発生するを如何せむ。区々たる門鑑に依りて之れを防遏せむとするは寧ろ或は徒労に属するなきを得むや。
然らば韓国宮廷の陰謀を根絶するに策なきか、曰く是れ有り、唯だ時間の力是れのみ。即ち陰謀を其の発生するに一任し、而して其の発生を検出する毎に之れを鎮圧し、漸次に其の醗酵力の消滅するを待つのみ。夫れ韓国の禍源は群小に非ず、雑輩に非ず、大臣の無能に非ずして、皇帝の人格に在り。韓国問題は政治上に於ては既に解決せられたりと雖も、其の禍源は猶ほ依然として皇帝の人格に存す。苟も韓国保護の実効を奏せんとするに於ては、時間は必らず最後の断案を皇帝の人格に下だすに至らむ。要するに伊藤侯の成功の遅速は、此の時間の到来の遅速に在りと認むべきのみ。(三十九年八月)
伊藤侯、クローマー、及びラネツサン
現代に於て、保護国の統治者として最も成功したる人を問はば、第一に英国のクローマー男を指名し、次に仏国のラネツサン氏を以て答ふるもの多かるべし。クローマー男の埃及に於ける位地は、僅に英国総領事兼外交事務官たるに過ぎざりき。又英国の埃及に対する保護権は、公然法律を以て設定せられたるにはあらざりき。而もクローマー男は二十余年間の拮据経営によりて、英国の埃及保護を既成事実として列国に承認せしめたりき。仏国の殖民政策は大抵失敗の歴史を有すれども、比較的効果を挙げつゝあるものは、印度支那に於ける保護政治なりとす。而して其の功労は主として之をラネツサン氏に帰せざるべからず。我が伊藤統監を以て此の二人に比するは、未だ其の時機を得たるものに非ずと雖も、侯が日本に於て最初の保護国統治者たる名誉を得たると共に、其の韓国に施設する所は、事の大小を問はず、均しく内外の注目を集中すること、恐らくはクローマー男にも将たラネツサンにも過ぐるものあるべし。况むや侯は政治家としての声望固より夐に此の二人の上に出づるをや。
クローマー男は模範英人ともいふべき実行家にして、其の精敏堅実なる事務的能力は、埃及に於ける諸般の施設に顕はれたる成績能く是を証明せり。彼は高遠なる理想を以て埃及を指導するよりも、直に手を眼前の行政事務に下だして、実際上より之れを改良するの得策なるを知りて、先づ灌漑工事を興して水利を治めたりき。是れ埃及の唯一財源は耕地の収穫に在るが故に、治水を以て財政整理の前提と為さむとするに外ならざりき。此成算は果して誤らずして財政漸く整理の緒に就き、公債を償還し徭役を全廃し、窮民地方の地租十分の三を軽減したるも猶ほ予算に剰余を見たりき。尋で兵制、獄制、地方行政及び司法制度の整改理革一として成功せざるなかりき。其の間撤兵問題、蘇丹事件等ありしも、彼は英京政府を助けて著々之れを解決し、終に埃及に於ける英国の保護権を確保して最早動かすべからざるものならしめたり。
仏国が安南に対して保護関係を生じたるより既に百余年を経過したりき、而も紛乱相継ぎて、保護政略容易に実効を挙ぐる能はざりしが、千八百八十六年ラネツサン氏は議会の委任を受けて安南地方を巡視し、深く其の国情を調査して、既徃に於ける仏国殖民政策の弊害を洞察し、帰来一書を著はして大に当局者を啓発する所あらしめ、終に自ら進みて印度支那総督となり、頗る安南保護の組織を改めたり。彼は大統領より附与せられたる広濶なる全権によりて東京と交趾とを直轄し、安南及び東埔塞の統監を廃し、商高理事官をして印度支那総督の監督の下に保護事務を行はしむることゝなせり。彼は深く安南王の信任する所となりしが、千八百八十四年罷められて国に帰へるに及で、総督制度は稍々挫折したりと称せらる。
伊藤侯が今囘締結したる日韓協約は、列国の承認せる既成事実を成文に章明したるに過ぎずして、是れ位の措置は侯に在ては寧ろ牛刀割※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の感あらむ。然れども余は侯に望むに仏国流の殖民政治家を以てせずして、虚名を棄てゝ実績を収めたるクローマーを以てせむとするが故に、侯が韓国統治者としての事業は、更に大に将来に規画する所多かるべきを思ふ。協約の締結は僅に保護事業の予備たらむのみ。(四十年九月)
立憲史上の伊藤公
伊藤公は新日本の建設者として、総ての史的事業に関係し、且つ他の何人よりも大猷参画の功労多き人なり。若し公の働らきたる部分の一つにても、完全に仕遂ぐるものあらば、彼は亦明治時代の一名士たる価値を得るに足るべし。公の政治生涯は多面にして而も面々華麗なり。燦然として悉く人目を集むるものにあらざるはなし。凡そ政治家の功名心を飽かすべき最好の機会は、殆ど一として公の手に触れざることなく、是れと同時に其の政略及び行動は時として物議の中心たることありと雖も、終始善く皇上の御信任を全うして頭等元勲の待遇を受けたり。後世より公を見ば恐らくは維新の三傑よりも一層偉大なる人物なりと信ぜらるべし。
然れども公が新日本建設者の一人として優勝特絶の地歩を占むる所以は、言ふまでもなく立憲政治の創設を大成したるに在り。顧ふに立憲政治の創設は、岩倉、木戸、大久保の諸賢夙に之れを 聖天子に献替して其の基を啓らき、爾来補弼の重臣之れを内に翼賛し、在野の政治家之れを外に唱道して、遂に欽定憲法の発布を見るに至りたりと雖も、此の憲法の立案、及び之れを実施するが為に必要なる一切の準備は、殆ど専ら伊藤公の手に成れりと謂ふべし。蓋し立憲政治を創設するに於て最も困難なる問題は、日本固有の国性と、欧洲立憲制との円満なる調和を実現すること是れなりき。若し国性に適合せざる憲法を制定するときは、啻に之れを運用するの難きのみならず、到底其の効果を収むる能はずして、却つて帝国の発達と繁栄とを阻害するに至らむ。公は理想よりも歴史に重きを置き、国性と両立し得る限りに於て、欧洲立憲制の組織を斟酌採択せむとし、其の聖鑒を蒙りて任に憲法立案の事に膺るや、一面に於ては欧洲各国の憲法を調査して、二年の歳月を海外に費し、一面に於ては自ら専門の国学者を相手とし、心血を竭くして古今の沿革を講究したり。当時憲法を私議するもの、大抵其の範を民政主義の立憲制に採らむとするに傾き、之れに反して民政主義を悦ばざるものは、動もすれば極端なる神権政治を主張して、立憲政治を否認するの論結に帰著し、共に皇謨の大精神と相距る甚だ遠かりき。而も公は政治家たるの識見と立法家たるの才智とを兼備するの資を以て、純然たる君主的立憲制の日本の国性に適合するを確信し、且つ之れを確立するに於て周到なる意匠と慎重なる考慮を凝らし、以て遂に千古不磨の大典を立案するを得たり。
* * * * * * *
斯くて憲法を発布せられたりと雖も、之れを実施するに方りては、先づ行政各部の機関をして立憲的動作を為さしむるに適当なる諸般の改革を行はざるべからず、否らざれば未だ立憲政治の創設を完成したりと謂ふを得ざればなり。而して此の改革は政府の組織を根本より変更するものなるが故に、其の影響の及ぶ所は極めて広汎にして、直接に之れが打撃を受くるものは政府部内の藩閥者流なり。例へば会計法の如き、文官任用令の如きは、事実上藩閥の勢力を削小するの結果を生ずるを以て、最も藩閥者流の感情を刺戟したりしは自然の勢なるべし。然れども 皇上は憲法調査の全権と共に、憲法実施に関する凖備をも挙げて之れを公の自由手腕に委任せられたりき。是れ改革の容易に行はれたる所以なり。且つ憲法実施の準備整頓するや、公は自ら新官制に基きたる内閣の総理大臣と為りて、各行政機関の運用を試みたりき。是れ将に来らむとする議会に対せむが為に、政府の立憲的動作を訓練するに外ならざりき。斯くの如く公は一身を立憲政治の創設に捧げて其の能事を尽くしたれば、憲法の効果を収むるに就いても、亦無限の責任あるを感ずるは当然なり。
初め欧洲に於ては、日本の果して憲法政治に成功するや否やを疑ふの学者少なからざりしが、顧みて憲法実施後の経過を見れば、政府と議会との行動に於て大に非難すべき点なきに非ずと雖も、全体の成績よりいへば、何人も憲法の効果に対して疑惑を挟むものあるべからず。但だ公は憲法と一身同体の関係あるを自信して、憲法実施以来、其の朝に在ると野に在るとを問はず、絶えず其効果の如何を監視して、立憲政治の健全なる発達を助けむとするものゝ如し。曾て屡々議会に現はれたる大臣責任問題に関しては、公は君主的立憲制の本義を固執して、英国流の責任論を排斥するに余力を遺さざりき。何となれば日本の内閣は帝室内閣にして、大臣は天皇に対して補弼の責に任ずと憲法に明記したればなり。然れども公は帝室内閣を広義に解釈し、原則としては、政党をして天皇の大権を侵犯せしむるを許さずと雖も、日本臣民は均しく文武官に任ぜらるゝの権利を与へられ、又文武官の任免は、大権の発動に属するものたる以上は、政党を以て内閣を組織せしむるも、决して君主的立憲制と相悖らずと説けり。是を以て公は大隈板垣両伯を奏薦して内閣を組織せしめたることありしのみならず、自ら政友会を組織し、其の会員を率いて内閣を組織したることありき。要するに公が政友会を創立したるは、日本立憲政治史に一新紀元を劃するものなり。
公が憲法の効果を収めむが為に、常に朝野の間に立ちて、憲法の活ける註解者として働らき、今尚ほ働らきつゝあるは、憲法起草者たる公として避くべからざる責任を感ずるが故なるべし。今や憲法発布二十年期に際し、皇上特に憲法紀念館を公に下賜して、其の晩年の光栄を限りなからしめ給ふ。拝聞す此の建物は皇室の典範、帝国
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