、今日仮りに純然たる政党内閣を組織し見よ、天下必ず主義政見の異同に依りて二大政党に分れむ、是れ必然の趨向にして又立憲政治に於ける当然の帰宿なり、嚮きに伊藤侯が大隈板垣両伯を奏薦したるは、実に此大勢を利導せむと欲する精神に外ならざるなり、我輩は、当時深く侯の光明磊落なる心事に敬服したりと雖も、不幸にして憲政党の組織余りに尨大なりしが為に、権力の集中点未だ定まらざるに早く既に権力平衡の愚論起り、遂に政敵をして乗じて以て内閣破壊の目的を達せしめたり、さりながら当時若し仮すに尚ほ数月を以てせば、権力の集中点自然に定まる所あると同時に、政党の淘汰作用も適当に行はれて、去るものは去り留まるものは留まりて、天下は必ず二大政党の分有する所となりしや明かなり、故に我輩は憲政党内閣の瓦解を以て政党内閣制を否定するの原由なりと信ぜざるも、憲政党の組織に関しては初より大に遺憾なくむばあらず、何となれば当時憲政党には第一統一に必要なる首領あらざりしを以てなり、即ち今若し名実兼備の首領ある政党にして内閣を組織せば、たとひ現に絶対的多数を議会に占むる能はずとするも、其の内閣一たび成立して議会に臨めば、議会必らず之れを歓迎して一大政府党忽ち出現せむ、或は然らざるも亦必らず絶対的多数の他の政党によりて内閣を相続せらるるの機運を作らむ、又何ぞ絶対的多数の政党あるを待て始めて政党内閣を建設し得可しと謂はんや。

      ※[#始め二重括弧、1−2−54]三十二※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 山県相公閣下、今日若し政党内閣に反対せんとせば、先づ之れに代る可き内閣の主義を一定せざる可からず、閣下の属僚は官属主義の内閣を建設せむと欲すと雖も之れ徒労のみ、若し官属主義にして成立し得可くむば、初期議会に於て既に成立す可き筈なるに、当時僅かに超然内閣の名義によりて一時を糊塗したるに止まり、事実は反つて政党の援助を得て内閣を支持したるは何ぞや爾来官属主義は独り藩閥者流若くは藩閥に隷事せる属僚の間に唱へらるゝに過ぎずして、年々歳々唯政党の勢力次第に膨脹するを見るのみ、是豈政党内閣の到底否定す可からざる理由に非ずや。
 相公閣下、自由党が閣下の内閣と提携したるは、蓋し閣下の内閣をして官属主義の内閣ならしめんとするにあらずして、実に政党内閣に入る可き過渡時代の内閣と認めたるに由れり、切言せば閣下の内閣は、自由党の為に試験せられつゝあるなり、此の試験にして自由党の予期したる如き結果を見ざれば、自由党は如何なる手段を使用しても其当初の目的を達せずむば休止せざる可し、而して閣下は今や一方に於ては官属主義の属僚に擁せられ、一方に於ては政党内閣を目的とせる自由党に援助せられ、恰も南面すれば北狄怨み、北面すれば南蛮怨むの境遇に在り、閣下の現位地は亦頗る不思議なりと謂ふべし、其不思議なるは尚ほ可なり、是れ疑もなき閣下の災難なり、閣下にして苟くも進退其の機宜を誤まれば遂に属僚にも離畔せられ、自由党にも反対せられて、政界の立往生を為すの外なきに至らむ、亦閣下の宜しく熟慮すべき場合に非ずや。
 閣下漫に政界の前途を憂ふる勿れ、国家は何時までも老骨を煩はすの必要なく、後進の人物にして国家の大事に耐ゆるもの亦少なきに非ず、閣下の内閣にしてたとひ直に更迭すと雖も、之れに代るの内閣を組織するは必らずしも難事に非ず、况むや天下既に閣下の内閣に倦みて、人心変を思ふの今日に於てをや、且つ国家方に鞏固なる内閣を得て内外の政務を刷新せむことを望むに際して、微弱にして統一なき閣下の内閣をして尚ほ今後に存立せしめば、政界益々沈滞して国家毫も活動する能はざるに至らむ、是れ我輩が閣下に向つて断然たる辞職を勧告する所以なり。

      ※[#始め二重括弧、1−2−54]三十三※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 山県相公閣下、我輩は閣下頃ろ辞任の意あると聞き、窃かに閣下が処决の時機を得たるを賀したりしに、今や又閣下が策士の言に動かされて忽ち留任の心を起したりといふを聞きては、我輩深く閣下の聡明頗る蔽はるゝ所あるを惜まずむばあらず、閣下に留任を勧告するものは自由党の毫も畏る可からざると、伊藤侯の遽かに起つの意思なきとを以て閣下の聡明を蔽はむとすと雖も是れ姑息の計を進めて反つて閣下の過失を再三せしめむとするの妖言なり、閣下が既往三年間の歴史を観るに閣下の過失は実に此の類の妖言に原本したるもの多し、閣下は元来謹厚慎密にして進退を苟もするの人に非ず、而も其の属僚を有すること他の元勲よりも多数なるを以て、動もすれば佞嬖の小人に擁せられて不測の過失に陥ること少なきに非ず、今に於て尚ほ自ら悟らずむば、閣下恐らく恢復す可からざる汚名の下に没了せむ。
 相公閣下、閣下は政治家として他の元勲に卓出したる技倆を有するに非ず、而も其の内閣を組織してより既に二会期の議会を通過し、兎も角も比較的長期の内閣の首相として今日まで無事なるを得たり、此の点よりいへば、閣下は藩閥元勲中最も幸運なる位地に立てりと謂ふ可し、夫れ賢者は名を惜み、哲人は身を保たむことを思ふ、閣下はたとひ政治家たるの技倆なきも、賢哲の用意を為すに於て未だ必らずしも晩れたりと謂ふ可からず、閣下何ぞ之れを熟計せざる※[#白ゴマ、1−3−29]且つ夫れ閣下は蒲柳の質、気力亦頗る衰へたり、曾てサーベル政略を以て党人に畏怖せしめたるもの今は党人を迎合して僅に一時の苟安を謀るに汲々たり、顧みて内外の形勢を観れば、国務益々多端にして、総て盤根錯節を断つの利器を待つものたらざるなし、閣下たとひ愛国の至情自ら禁ずる能はざるものあるも閣下の健康到底之れに堪へざるを奈何せんや、想ふに閣下亦必ず負荷の難きを知らざるに非らじ、之れを知つて尚ほ且つ自から断ずる能はざるは、唯だ属僚に対する関係より脱離するを得ざるが為めのみ、さりながら閣下にしても苟も此般の情実に拘束して自ら断ずる能はざれば、閣下は終に属僚に誤まられて末路必らず悲む可き運命あらむ、乃ち我輩は閣下の名誉の為めに、閣下の晩節を保つが為に、将た局面を展開して政界を一新せむが為めに茲に謹で閣下の辞職を勧告す、閣下果して我輩の言を納るれば、是れ独り閣下の利益のみならず、又国家の利益なり、閣下幸に之れを諒せよ。(三十年四月)

     山県公爵

 現代日本に於て最も秘密多き人物は、恐らくは山県公爵なるべし。彼れの性格、伎倆、及び政策は、伊藤公爵若くは大隈伯爵等の如く分明に表現せられざるが故に、国民は唯だ彼を政治界の一勢力として其の存在を認識する外、復た彼れの真価に就て何等の知る所なきものに似たり、例へば世人は彼を称して最も頑固なる保守主義の代表者と為すも、彼れの保守主義の如何なるものなるかを精確に領解するもの果して之れあるや。世人は又彼を目して政党内閣制に反対する政治家と為すも、誰れか果して彼れの口より公然たる非政党内閣論を聞きたるものありや。或は彼を陰険といひ、或は彼を圧制家といふも、其の批判は果して事実を根拠としたるものなりや。頗る疑はし。然れども彼れの真価の知られざる処は、是れ却つて彼れの真価の存する処にして、彼れが伊藤公爵大隈伯爵等と相対峙して、別種の勢力を有する所以亦此にあり。
     *  *  *  *  *  *  *
 大凡政治家に二様の模型あり。公衆と倶に語り、公衆と倶に喜憂し、常に門戸を開放して、勉めて公衆と接近し、以て自己の存在を社会に記憶せしむるを平生の用意と為すもの是れ一、大隈伯爵の如きは此の模型の政治家にして、伊藤公爵も亦稍々之れに近かし。第二は全く反対の模型にして、敢て漫りに公衆と親まず、必らずしも社会に自己を領解せしむるを求めずして、唯だ其の信ずる所を行ひ、其の為さむとする所を為し、名声よりも実功を重むじ、人の是非よりも事の結果を考へ、且つ言行謹慎にして、持重の念頗る強し。山県公爵の如きは則ち是れなり。前者は社会の感情中に生活し、後者は少数者の信任に身を托し、前者は公衆を対象として客観し、後者は自己及び自己の職分を本位として主観す。前者は共和国に在ても猶或は政治家たるを失はずと雖も、後者は独り君側輔弼の宰相として立つに非ずむば、政治家たるよりも、寧ろ軍人として成功せむ。山県公爵が常に一介の武弁と称し曾て政治家を以て自ら任ぜむとするの口吻を漏らしたることなきは、則ち彼れに自知の明あるが為に非るなきか。
 試に大隈伯爵を見よ、彼れの門前は日に各種各様の来客を以て市を成せり。政党員も往き、新聞記者も往き、実業家も往き、相場師も往き、紳士も往き、貴婦人も往き、学者も、書生も、浪人も争ひ往けり。而して一たび早稲田邸の玄関を辞したるものは、皆大隈伯爵の写声機となり、喇叭管となり、讚美者となりて、彼れを社会に吹聴し、紹介し、推奨して、彼れに対する記憶を深からしめざるなし。是れと同時に、彼は自ら進むで活溌なる社会的運動に関係し、或は好むで公私の会合に出席し、或は屡々大なる園遊会を開き、以て自己と公衆との連絡を謀るが故に、彼は既に政党総理を辞して直接に政治界と交渉せざるも、其の存在は依然として公衆瞻仰の標目たり。特に彼れの有する広大なる庭園は、殆ど一種の高等公園として公衆に公開せられたるものゝ如く、彼れの誇りとする園芸の如きも、彼に在ては閑人の道楽に非ずして多忙なる社会的運動の一方便たり。彼は其の庭園に瀟洒たる一茶室を有せり。而も余は未だ曾て彼れが宗匠を呼びて茶会を催したるの風流ありしを聞かず。閑寂を旨とする茶会の如きは彼れの到底堪ゆる所に非ればなり。彼は陽気を好み多事を好み、活動を好み、変化を好む。彼は一日も懐抱を封鎖する能はず、一日も談論を廃する能はず、一日も社交と隔離する能はず、一日も沈欝なる天地に俯仰する能はず。彼は山を楽むの仁者たるよりは水を楽むの智者たるを喜べり。彼は安心立命を求むるの達人たるよりは、一生奮闘を継続するの戦士たるを選べり。
 伊藤公爵を以て彼れに比すれば、其の人格に大なる相違ありと雖も、其の名誉心の頗る旺盛にして、常に身を公衆の眼前に置き、自己の存在の社会に意識せられむことを求むるの点に於ては則ち一なり。彼は大隈伯爵の如く放胆無双ならず、又大隈伯爵の如く非常に多方面ならず。彼れの世界は殆ど政治に限られたり。然れども彼は此の限られたる世界を成るべく華やかにして、働らき甲斐あらむことを期するが故に、自己の存在の社会に忘れらるゝは、最も彼れの恐るゝ所なり。彼は又大隈伯の如く単に社会の潮流に乗ずる巧妙なる舟子たるを以て甘むぜずして、潮流其物を指導せむとするの慨ありと雖も、要するに風潮以外に立つて独自一己の理想を保守する人にあらず。若し伊藤公爵と大隈伯爵とを対照せば、伊藤公爵は欧洲大陸の政治家たる面影あり、大隈伯爵は英国政治家の風ありと謂ふべくして孰れも欧洲式の政治家たり。転じて山県公爵を観れば、其生涯は夐然別種なり。彼は明治の歴史に於て最も重要なる部分を働らきたる一人なり。彼は自ら首相となりて内閣を組織したること前後二囘、其の内閣を組織せざる場合に於ても、屡々内閣の製造者たることありて、其の発言は往々内閣の更迭に影響を示したり。彼は所謂る元老団の要素として天皇陛下より特絶の待遇を受け、内外の重大なる国務は、一として彼れの与かり知らざるものなく、恐らくは最後の真理を最初に聞くべき位地に居るものは彼なるべし。蓋し日清戦争以来、軍事は政治機関の強部を占め、所謂る戦後経営なるものゝ如き、畢竟軍事を主として財政を従としたる立案たるに過ぎざるの観あり。之れに加ふるに日露大戦の経験を以てしたるに於て総ての政治問題は殆ど軍事万能主義に依て左右せらるゝの傾向を現はせり。則ち是の時に当りて、政府の枢機は軍事を心軸として囘旋するが故に、政治問題の秘鍵を握るものは亦軍事当局者なりと推定するも可なり。而して山県公爵は軍国の大首領として優越的威望を有するのみならず、軍事と政治の関係を研究するに於て又他の元老の何人にも勝れるは言ふを俟たず。斯くの如き威望と長所とを兼備せる山県公爵が最も早く政治問題の極意に通じ得べき地位に在
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