所なりき。
公曾て『慨世私言』を著はして、内閣と政党との関係を詳論したることあり。其の党人を戒むるの言に曰く、在野政党員たるものも、徒らに政府乗取の紛争を慎まざるべからず。何となれば立憲政治の時運に到達したる国家に於ては、急躁焦慮する所なきも早晩政党内閣の起るべきは其の数なり。而も今日の如く、各党各派孰れも確乎たる一大主義を有するなく、情実に合し、情実に離れ、小党分裂の時に於て、政府を乗取らむとするも豈得べけむや。仮令幸にして乗取り得たるとするも、其れ能く一党一派の内閣にして、久しく其の位地を支ふるを得べけむや。朝たに新内閣成りて夕べに僵る、国家の為に何の益ぞ。国民の為に何の利ぞ。寧ろ国家の大勢定りて、政党の争ふ所主義の実行に一定し、一大政党を以て一大政党と争ふの時期を待つの国家国民の利たるに如かずと。以て公の志の在る所を知るべし。
余は二十八年二月雑誌『精神』の董刊を公より託せられ、爾来重大なる問題起る毎に、公の意見を聴くの機会に接すること益々多かりき。後ち精神を改題して『明治評論』と為すや、公は其の立案に成れる『朝党野党』と題する一論文を余に与へて、其の初刊の紙上に掲げしめたり。当時伊藤内閣は自ら称して超然内閣といひしに拘らず、窃に自由党と提携し、又別に国民協会をも収攬して内閣の党援と為さむとし、其の旗幟甚だ鮮明を欠きたるのみならず、動もすれば内部の調和を謀るに急なるが為に、弥縫と姑息とを事とするの状あり。而して在野党の如きも、各派互ひに相分立して、一大政党を組織するに至らず、随つて其の在野党としての勢力毫も発展する所あるを見ざりき。公乃ち伊藤首相に向ては、其の宜しく超然主義を棄て、純粋なる政府党を作り、以て其の旗幟を鮮明にすべきを勧め、在野党の盟主たる大隈伯に向ては、其の宜しく改進党との関係を絶ちて各派合同の疏通に便ならしむべきを説きたり。是れ一篇の眼目なりき。公は此意見を以て直接間接に朝野の政治家を指導するに努めたるは言ふまでもなく、大勢亦久しからずして、遂に半ば公の意見を実現し、自由党は公然政府党と為り、改進党其余の各派は、相合同して進歩党を組織するに至りき。
然れども公は唯だ至公至誠を以て時局に処し、未だ曾て政権争奪の渦中に陥りたることあらず。故に二十九年松隈内閣成るや、公は文部大臣の候補に擬せられ、切に入閣を慫慂せられたりと雖も、公は固辞して之れを受けざりき。公を知ると知らざるとを問はず、皆公の入閣を希望せざるものなく、余も亦実に公の自ら起たむことを勧告したる一人なりき。公其の心事を余に語りて曰く、松隈内閣は一種の聯合内閣なり、之れを従来の内閣に比すれば、稍々進歩したる体貌を有するに似たりと雖も、其の実質は薄弱にして統一を欠き、情弊尚ほ依然として内部に纏綿せり。其の前途知るべきのみ。我れ不似と雖も、身華冑の首班に列し、任重く途遠し。又何ぞ躁進して功名を徼倖し、以て自ら求めて名節を汚がすの位地に立つの愚に出でむや。且つ我れ、陛下の命を受けて学習院の院長たり。真に華族をして皇室の藩屏たらしめむとせば、先づ華族の子弟を教育するより急なるはなし。我れ既に此目的を抱て、専ら措画経営する所少なからず、之れを完成するは談豈容易ならむや。文部大臣たるの適材は世間自ら其の人あらむ、学習院の措画経営は、断じて之れを他人に委する能はずと。蓋し公は是より前、学習院長に任ぜられ、全力を挙げて華族の子弟教育に従事しつゝありしを以てなり。余は公の著眼の高明なると、心事の純潔なるに服し、益々公の人格に敬意を表せざるを得ざりき。
松隈内閣は果して公の予想に違はず、所謂薩派と進歩派との紛争日に絶えずして、忽ち瓦解するに至れり。政界は再び伊藤内閣を復活したりき。而も其の内閣は旧に仍りて超然主義を唱へたりしがゆゑに、自由党は反旗を翻へして内閣攻撃の位地に立ち、尋で進歩党と合同して憲政党と為るや、伊藤侯は大隈板垣二老を奏薦して新内閣を組織せしめ、茲に始めて政党内閣の組織を見るを得たりき。而も此の内閣は、政党内閣としては最も醜悪を極め、特に人才の選叙に於て当を得ざるもの頗る多かりき。党派の腐敗漸く此の時より助長し、政界の溷濁復た済ふ可からざるの状態に陥りたり。是に於てか、公の政党内閣に対する信念は、多少の動揺を始め来りしものゝ如くなりき。公曰く、政党内閣は暫らく断念せざる可からずと。但だ公の君国に忠実なる、憲政の運用を円滑ならしむるの道に於て、曾て一日も之れが講究を忘れたることあらず。故に第十八議会に於て、桂内閣と衆議院と衝突するや、公は無益の紛争によりて国務の進行を阻碍するを見るに忍びず自ら両者の間に立ちて妥協を謀らむとしたりき。其の尽力は成功せざりしと雖も、世人は深く公の苦心を諒としたりき。
余の見たる近衛公は、日本貴族の最高貴なる血液を遺伝
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