功名心から生れたので、策略だの陰謀だのといふほどのものでもないと考へる。
 △然らば彼れは何故に此の事を一応政友に相談せずに独断に遣つたかといふに、ソコが則ち河野本来の面目で、彼れは大事を行ふ場合に、人と相談する男でない。又た責任を人と分かつやうなことは好まない方だ。度量が濶いやうで、狭まいやうで、チヨツと尋常人と異つた点がある。
 △勿論従来の慣例を破つて、奉答文に閣臣弾劾の意義を含ませるといふことは、相談しても容易に同意を得るものでないことは、河野も能く知つて居たのである。コンな話を正面から持ち掛けて見給へ、代議士などは唯だ胆を潰ぶすばかりで、政党の領袖で候のといつて居る手合でもイザとなると腰を抜かすに極つて居る。相談なんてソンなこと非常の英断を下だす場合に禁物である。
 △元来河野は、如何なる地位に居ても、如何なる時代に在ても間断なく仕事をするといふ性格の人でない。彼れは感情の最高潮に達した時でなくては活動を顕はさない質である。世は彼れが久しく蜚ばず鳴かずに居つたのを嘲つて無能といつたが、是れは蜚むだり鳴いたりする動機に触れなかつたので、無能には違ひないが、活動力は消滅した訳でないのである。
 △算盤を弾じくとか、理窟を捏ねるとかいふことは、能者のすることで、河野のやうな性格の人には出来ぬ芸だ。利害を離れ、政略を離れて、唯だ一個河野といふ人格の自我を発揮する時でなくては、彼れの本領が見えぬのである。
 △トコロが当世は小刀細工の流行する時節であるから、河野の自我が発揮された奉答文事件を認めて、誰れか背後に黒幕が隠くれて河野を操つたのだと推測するものがある。誠に河野の為に気の毒の感に堪へない。特にニコチン中毒の説を流布して、河野と煙草屋との間に何か秘密でも在るかのやうに言ひ做すに至つては、余り酷どい穿ち様であると考へる。ソンな河野なら、今のやうな貧乏はして居ない。
 △政府に買収されたといふのも党派根性から割り出した推測で、愚にも附かない話ぢや。マー河野よりも政府の都合を考へて見給へ、解散の結果は、前年度の予算を執行することゝなるのだ。第十七議会は解散で三十六年度の予算が不成立となつて居るのだから、前年度の予算といへば三十五年度の予算である。三十七年度の歳計を立つるのに三十五年度の予算に依るといふのは、政府の大困難であつて、ワザ/\ソンな大困難を引受くる為めに、河野を使つて解散の口実を作る如き馬鹿な狂言をするでもなからうぢやないか。
 △又た西園寺侯が河野を煽てゝ遣らせた狂言に過ぎないといつて通《つう》がつて居るものあるが、コレは西園寺侯が優しい顔をして居つて、なか/\悪戯を弄ぶ人であるとの推測から来たのであらう。併しあんな常識を外れた策略は侯の柄に箝まるものでない。考へて見ると奉答文事件は侯の作戦計画を全く打ち壊はしたので、侯は大に目的の齟齬したのを失望したに相違ない。
 △併しドンな批評があらうとも、河野は河野の為さむとする所を決行し了せたのであるから、毀誉褒貶は度外に置くべしだ。兎に角彼れは十分自我を満足せしめたのだから、外に何も遺憾なことがなからう、今度のやうな機会は再び来るものではない。彼れも此に於て始めて歴史上の一人物と為つたのである。(三十七年一月)

   尾崎行雄

     尾崎行雄

      学堂の英雄崇拝
 博学多識の小野東洋早く歿し、敏警聡察なる藤田鳴鶴尋で逝き、俊邁明達の矢野竜渓は、中ごろ久しく政界と絶縁して、隈門の人才、為めに人をして寂寞を感ぜしめ、今や世間島田沼南、犬養木堂、尾崎学堂を隈門の三傑といひ、而して学堂最も当世に称せらる※[#白ゴマ、1−3−29]凡そ新進政治家にして学堂の如く顕著なる進歩を得たるものは、近来絶えて其比を見ず※[#白ゴマ、1−3−29]彼れは啻に沼南、木堂より遥に後輩なるのみならず、現今著名なる党人中に在ては、彼れは最も年少なるものゝ一人にして、且つ其従来の経歴よりいへば、箕浦青洲、肥塚巴月等も皆彼れの先輩にして、彼れは僅に加藤城陽、角田竹冷等と略々伯仲の間に在りしものなり※[#白ゴマ、1−3−29]然るに今や彼れは多数の先輩を凌駕して、沼南、木堂と併び称せられ、其名声は却つて此二人の上に出でむとするは何ぞや。
 顧ふに議会開設以前までの学堂は、唯だ夸大なる空想と、奇矯なる言動とを以て、漫に聞達を世間に求め、天下経綸の実務は一切夢中にして、独り気を負ひ、才を恃み、好むで英雄を気取り大政治家を擬したる腕白書生たりしに過ぎず※[#白ゴマ、1−3−29]試に其事実を挙げむか、明治二十年、時の伊藤内閣の欧化政略が、激烈なる輿論の攻撃を受け、物情洶々として形勢穏かならざるや、忽焉として保安条例なるもの天来し、処士政客大抵京城の外に放逐せられ、満城粛然たり※[#白ゴマ、1−
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