条約実施上の交渉案件にして、今も尚ほ満足なる解答を得ざるもの多きが為めに、彼等は已むを得ずして当局者以外の勢力家に協議を求むることありといふ、特に私立学校令に付て、文部当局者が外交官の反対の為に左支右吾の行動ありしは、殆ど公然の事実にして、凡て此般の事、其の帝国政府の威信に関するや頗る大なりと謂はざる可からず。
 相公閣下、閣下は元来職守に厳に、職権を※[#「厂+万」、第3水準1−14−84]行するを以て高名なりし人なり、井上伯は閣下に比すれば、機略に富み決断に長ずれども、其の趺宕の性、動もすれば法律規則を無視するの弊あり、伊藤侯は閣下に比すれば、立法の才、組織の能力に於て超絶すれども、其の文采言語の多き割合には其の実行躬践の分量甚だ少なきの欠点あり、閣下は固より伊藤侯の才能なく井上伯の胆気なしと雖も、而も曾て重きを藩閥政府に有したるは、実に官府の秩序と威権とを保維するを以て行政の要と為したるに由れり、其の或は極端なる法治主義に偏して時に精刻峻急に陥るの病ひあるのみならず規摸も亦甚だ狭小にして、官権拡張の外殆ど大なる主張なかりしに拘らず、我輩は尚ほ此点に於ける閣下の本領を認めて、所謂る藩閥武断派の代表者と為したりき、今や閣下の本領は全く消磨して、精刻峻急の角度を取り除きたる代りに、秩序もなく、節制もなく、官紀を紊乱し、行政機関を荒廃して、唯だ内閣一日の姑息を謀らむとす何ぞ其の老ゆるの太甚しきや。
 思ふに閣下は漫に属僚の小献策に気触れて大局を観るの眼識を失ひ、単に議院政略に成功するを以て能事と為したるもの、是れ実に閣下が政治の大道を踏み外づしたる所以なり、蓋し彼の属僚輩の頭脳には、唯だ内閣を出来得るだけ永く維持せんと欲する目的の外には一物なく、而も此の目的は、国家経綸の抱負より来れるには非ずして、実は官職を生活問題より見たる劣情より出でたるに過ぎず、而して彼等が生存競争の大敵として常に忌憚するものは党人なるが故に、彼等は先づ此の党人の猟官心を抑制するに於て如何なる手段方法をも顧みざるに至れり、是れ議院政略の由て生ずる所にして、而も其の之れを施して底止する所なきや、反つて内閣の威信と行政機関の壊敗とを招くに至れるを知らざるなり。

      ※[#始め二重括弧、1−2−54]十一※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 山県相公閣下、閣下が属僚の進言を納れて柄にもなき議院政略を乱用したる結果は、殆ど政治をして私利私慾を目的とする一種の営業たらしめ、其の争ふ所は、官職若くは利益上の条件にして敵味方の分かるゝ起点は亦唯だ此の一事に在り、是れ固より政治階級の総堕落といふの外なしと雖も、一は閣下等を包擁せる属僚の行動も、亦与つて大に咎めありと断言せざる可からず。
 凡そ今の藩閥家にして、最も多数の属僚を有するものは閣下に過ぐる者なく、而して其の属僚の為めに政治上の過失を犯したるもの、亦閣下より太甚しきものあらじ、伊藤侯は自己の伎倆を信ずるの政治家なるを以て閣下に比すれば属僚を有すること少なきのみならず、其の属僚の侯に対するや随がつて唯だ服従的状態を有するに過ぎずと雖も、而も尚ほ属僚の為めに大事を誤まらるゝことなきに非ず、况むや閣下に於てをや、蓋し閣下は常に政治家の位地に※[#「糸+二点しんにょうの遣」、第4水準2−84−58]恋する人なるも、未だ政治家の任務に付て自己の伎倆を信ずる人に非ず、故に属僚の閣下に対するや、始めより服従的状態を有せずして、寧ろ顧問的関係若くは師伝的関係を有せり、是れ閣下の内閣が属僚政治の為めに其の威信を失ひたる所以なり。
 相公閣下、閣下は多数の属僚を有するに於て今も尚ほ政治上の一勢力たるを失はずと雖も之を政治家の名誉より見れば、決して自ら誇る可きの勢力に非ざるを如何せむ、真に伎倆ある政治家は、一人の属僚を有せずして、其の勢力自ら天下に展ぶるを得れども閣下の政治上に於ける勢力は唯だ属僚の為に存在し、属僚の為に利用せらるゝ勢力たるを見るのみ、閣下の名誉に於て又何の加ふる所ぞ、議会開設以来属僚は常に褊僻なる国家至上権と、頑愚なる超然内閣論を唱へて藩閥家を利用したりき、是れ党人に対する属僚の作戦計画にして、其の計画の迂なるや、戦ひ遂に利あるずして政党の提携と為り、一転して憲政党内閣の時代と為りたるは、実に最近の事実なり此の間属僚中にも分裂を生じて自ら政党に接近するものを出だせりと雖も、其の多数は依然として政党と利害を異にするものたり、而して閣下は現に此の多数の属僚に依て包擁せらるゝを見る彼等は閣下を以て最も自己の生存に便利なる人なりと認め、曩きに憲政党内閣の時代に於て、常に閣下の椿山荘に会合して当時の内閣を破壊するの陰謀を企てたり、顧ふに当時の内閣は、一は自由党の遠見なき行動に由て破壊したれども、其の破壊の主因は内閣
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