断つに足れり。侯亦豈多少の感動なきを得むや。况むや、参政韓圭咼は歔欷流涕の余殆ど喪心し、元老趙秉世は阿片を呑で自殺し、前参政閔泳煥は精神逆上して狂死したるを見るをや。然れども皇帝は侯の剴切周到なる説明によりて、協約締結の止む可からざるを了悟し、終に各大臣に命じ、韓国及び皇室の位地面目に利益ある修正を施すを条件として日本の大使と商議せしめたるに、侯は啻に其の修正案の全部を容れたるのみならず、更に皇帝の直接の希望に応じて新たに一条を加へたりき。第五条の日本政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持するを保証すといふもの是れなり。尋で侯は韓国統監に任ぜられ本年三月を以て京城に駐剳したれば、皇帝は待つに師父の礼を以てし、且つ各大臣に諭して、万機総て侯の指導に従はしめたり。是に由て之れを見れば、韓国の皇帝は実に無限の信任を侯に寄せたるものゝ如し。
 斯くて日本は韓国の保護者となれり。伊藤侯は韓廷の指揮者となれり。統監府は半島政治の中心となれり。侯は何時なりとも皇帝に謁見し得るの特権を有し、又何時なりとも各大臣を統監府に召集して内閣会議を開くの威勢を有せり。侯は命に背くものあれば大臣と雖も、之れが免黜を奏請し得べく、場合に依りては内閣の更迭をも謀るを得べく、兵力をも使用するを得べし。然れども是れと同時に、侯は韓国上下の誤解を招くを恐れて、成る可く急激なる改革を避け、温和漸進の方針を執り、一面に於ては政府の現状を維持して政治的動揺の発生を防ぎ、一面に於ては恩威兼用の施設に依りて信義を八道に光被せしめんとせり。侯は日本の韓国を保護するは之れを亡ぼす所以に非ずして、却つて其の興国の要素を開発せしむる所以なるを韓民に教へむとせり。侯は文明式の行政と、平和の経世術とに依りて韓国の秩序を整調し、韓民の生活状態を一変し、以て韓国の歴史に新性格を賦与せんと企てたり、侯は領土拡張の主義を含める覇道を排斥して、誠心誠意に王道を以て李家の天下を綏むずるに外ならざるを皇帝に領会せしめむと努めたり。約言せば侯の為す所は韓国の上下をして日韓協約の意義を善意に解釈せしめ、疑はず、惑はず、恐れずして全く日本政府に信頼せしむるを計るに在り。
 勿論韓国は事実に於て日本の殖民地なり。然れども侯は日本人をして韓国の利益を壟断せしむる如き何等の偏頗なる政略を行使せず総ての外国人に対して機会均等主義を適用せり。侯は寧ろ居留日本人
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