としたもので、其の人に党すれば位地を得る望みがあると考へる野心家とか、若くは其の人に首領的器局があつて何となく群衆を引き付ける所があるので、従つて人物を崇拝するものとかゞ結合した団体である。然るに伯は自分の部下となるものに青雲の志を遂げしむる勢力と手腕とを持つては居らなかつた。又群衆を引き付ける首領的器局を備へた人でもないやうである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]伯は巧みに風雲を指麾し、機会を利用して権勢を博取する故後藤伯の智略を欠いて居る。伯は利害を打算して進退する策士でないから、功名を懐ふものは伯の旗下に集らなかつた。たとひ一たび伯の門を潜つても大抵は失望して逃げ出すものが多かつたやうである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]且つ伯は自由民権論の大宗師で、理論に於ては平民主義を信じて居つたに相違ないが、伯自身は平民らしくなく、寧ろ貴族風の人といふものがある。
 ※[#丸中黒、1−3−26]それから伯は極めて潔癖で、憤りつぽくて、人を容るゝの量に富んだ方でもない。又赤心を人の腹中に預けて置て毫も疑はぬやうの英雄収攬術には頗る欠けて居るらしい。曾て馬場辰猪、大石正巳、末広重恭などが伯と喧譁別れをしたのも之れが為である。
 ※[#丸中黒、1−3−26]故に伯は個人として余り士心を得た方でなかつた。併し伯は人気を取ることを目的としないで、唯だ自由民権論を終始一日の如く唱道した。伯の政治生涯は性格に依て指導せられたる所少なく、理想に依て指導せられた所が多い。伯は理想を以て国民を教化せむと勉めたのであつた。其の結果板垣党が生れずして自由党が生れた。伯を中心としたる私党ではなく、理想を中心としたる公党が出来上つたのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]自由党に続て改進党が現はれたが、此の改進党は本来をいへば大隈伯が自分の直参や郎等を集めて作つたもので、実際初めは伯を中心として組織せられたものであつたから、何となく大隈臭い所があつた。世人も亦一名之れを大隈党といつたのである。然るに自由党は少しも板垣臭い所はなかつた。どう見ても板垣党といふべき形も色もなかつたのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]勿論当時自由党は屡々過激の行動が有て、政府より革命党か叛逆人の寄合かのやうに思はれ、世間も亦自由党といへば粗暴なる壮士の団体であると認めたものも多かつたから、着実に政治の改良を企て
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