した訳ではないのである。
※[#丸中黒、1−3−26]立憲政治を最も親切に研究した政治家は、故木戸公で、地方官会議を開いたのは其の準備であつたといつても宜しい。故木戸公のみならず、維新の元勲諸公は総て立憲政治の必要を認めて居つたのである。論より証拠、維新の元勲中、誰れあつて立憲政治に反対した者がなかつたのを見ても分かる。
※[#丸中黒、1−3−26]切にいへば、明治政府は最初より立憲政治を主義としたものである。維新の大詔に、万機公論に決すべしとありしは、最も明快に此の主義を宣示したので、明治初年早くも集議院といへる会議組織の官衙を設けたのも、立憲政治の地ならしを試みたのである。
※[#丸中黒、1−3−26]されば二十三年の国会開設は、明治政府が維新以来準備して居つた大事業を完成したまでゝあつて、板垣伯の運動に余儀なくされたのでも何んでもないのである。
※[#丸中黒、1−3−26]且つ板垣伯の主張したる民権自由論は、仏国革命時代に行はれたルーソー民約説の流れを酌んだもので、日本の国体とは両立し難き危激な理想を含んで居つた。今日では何人も斯る民権自由論を唱ふるものがない、恐くは伯自身に於ても全く其の持論を一変したのであらうと考へる。
※[#丸中黒、1−3−26]要するに、伯は立憲政治の建設に第一の功労ある人ではない。伯は夢の如き理想を以て夢の如き公生涯に浮沈したに過ぎないのである。
※[#丸中黒、1−3−26]併しながら伯のエライ所がないでもない。それは私党を作らずして公党を作つたことである。老西郷の私学校は一種の私党で、老西郷の人物を崇拝する連中の団体であつた。当時政府に反対するものは、動もすれば私党を作るの傾向があつて、前原一誠の如き、江藤新平の如き、皆私党を率いて事を挙げたのであつた。然るに伯は民権自由論の一点張りで、唯だ理想を宣伝することのみを勉めた。畢竟伯は政権を得むとするの野心がなく、偏へに民権自由論を鼓吹するを目的としたからである。自由党は其の結果として生れたのである。
※[#丸中黒、1−3−26]若し伯にして政権の分配に与らむとする意があつたとすれば、民権自由論は極めて不利の武器であつた。伯は此の武器に依て却つて政権より遠かつたのである。
※[#丸中黒、1−3−26]一体伯は私党を作るには不向の性格を有して居るかも知れない。私党は人を本位
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