彼れは斯く語りつゝ、真摯なる鳶色の目にて記者を見詰めたり。三分の神経質と七分の多血質とを調和したる相貌は、今も尚ほ依然として異状なき健康を保持し居れども、其の額際より頬の辺りを繞りて、蜘蛛の巣の如く織り出されたる無数の皺紋は、深刻にして精苦なりし閲歴の黙示として、頗る記者の同情を刺戟したりき。村夫子らしき質朴の風采にも、流石に第一流の国士たる品位は備はりて侵かし難く、純白にして柔滑なる絹様の美鬚髯は、奇麗に梳られて顔面の高貴なる粧飾と為れり。凡そ人物の精力は、大抵一期の時代事業終ると共に竭くるものたり。明治の時代を見るに、維新政府の建設より国会開設に至るまでを第一期と為す可く、国会開設より憲政党内閣の組織に至るまでを第二期と為す可く、第一期の時代事業は、専制主義の政府に代ゆるに立憲政府を以てして、国民に参政権を享有せしむるに在りき。是れ最も重大にして最も困難なる時代事業にして、欧洲に在ては、之れを仕遂ぐるが為に殆ど百年以上の苦がき運動を要したりき。日本の板垣伯は、明治六年始めて其の同志と与に民選議院の建白を提出したり。而して十四年には、国会開設を予約し給へる詔勅の煥発あり、二十二年には国民歓呼の間に憲法発布せられ、其の翌年には待ち設けたる初期の議会は召集せられたりき。是れ豈驚く可き速力を示せる成功に非ずや。彼れは此の成功の分配者として最大なる人物なり。彼れは他の如何なる政治家よりも、此の第一期の時代事業に貢献したる功労多きは、争ふ可からざる事実なり。伊藤侯は憲法立案者の名誉を独擅し得可し、然れども此の名誉は、板垣伯が国民的運動の首領として根気よく国会論を継続したる賜のみ。故に伊藤侯が故陸奥伯の献策を納れて、彼れの率いたる旧自由党と提携せむとするや、先づ彼れと会合し、徐ろに説て曰く、足下は国会開設の主動者なり、我輩は憲法の立案者なり、乃ち立憲政治の美を済すの責任は、懸つて足下と我輩との双肩に在らずやと。是れ一時人を欺くの甘言たるに過ぎずと雖も、事実は之れを真理として承認せざる可からず。彼れは日本憲政史上に永久磨滅す可からざる千古の格言を留めぬ。如何に其の沈痛にして天来の音響を帯びたるかを記臆せよ、曰く板垣死すとも自由は死せずと、是れ実に国民的運動の大精神を代表したるものに非ずして何ぞや。彼れの名は此の格言に依て万世に感謝せらる可し。たとひ岐阜の遭難に死したりしとも、
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